愛される会社の企業価値

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2026年05月13日

  • マネジメントコンサルティング部 主任コンサルタント 神谷 孝

企業価値は将来のキャッシュフローで測られる——。では、社員の幸せを最優先し、あえて利益の最大化を追わない企業は、市場でどう評価されるのだろうか。「愛される会社」を手がかりに、キャッシュフローには表れにくい価値と企業価値の関係を考えてみたい。
経済産業省の近畿経済産業局は、2022年度から「BE THE LOVED COMPANY PROJECT」を進めている(※1)。
このプロジェクトは、地域の核となる中堅・中小企業の役割に目を向け、「人(社員)の幸せを中心に据えた経営」を実践・追求する企業を調査している。そこで得られた考え方や手法を整理し、毎年レポートとしてまとめてきた。各企業の事例紹介もさることながら、回を進めるにつれ、経営理念・パーパスから組織・風土、そして人財へと分析の焦点が少しずつ深まっていく点も興味深い。
第2回レポートでは、伊那食品工業(※2)が取り上げられた。寒天の製造では、国内80%、世界15%のシェアを持つトップブランドである。同社は「知る人ぞ知る」存在でもある。「いい会社を作りましょう」という社是の下、企業の目的やあるべき姿を「社会や人々の幸せの追求」とし、とりわけ身近で大切な社員の幸せを、経営の中心に据えている。
その考え方を支える方針として掲げるのが、一時のトレンドに左右されず一歩一歩の成長を重ねる「年輪経営」だ。例えば2005年に寒天ブームが起きた際には、従業員に無理をさせないことを優先し、注文を断り続けたという。成長を追いかけるよりも、社員の幸せを守る姿勢がうかがえる。上場企業のなかにも同社を手本とする例があり、トヨタ自動車会長の豊田章男氏が、同社前会長の塚越寛氏を「私の教科書」と表現したことも知られている。(※3)
同社の取り組みを丁寧に掘り下げるだけでも、多くの学びがあるはずだ。ただ本稿ではいったん視点を変え、こうした「愛される会社」の企業価値を、どのように捉えればよいのかを考えてみたい。

そこで、極端ではあるが分かりやすい2つの企業モデルを想定する。共通点は、現在のフリーキャッシュフローが同水準で、将来の成長率がゼロ(つまり成長しない)であることだ。株主還元も同水準だと仮定する。
違いはこうだ。1つ目のモデル企業(仮にA社)は、成長の機会を見いだしながら、急がず一定のペースで業容を広げていく。ただし、利益はあえて増やさず一定に保つ。業容拡大で生まれた付加価値の増分は、社員の給与など「社員の幸せ」を支える費用に回し、企業に残る利益は増やさない。成長を抑える分、投資も一定に抑えられ、フリーキャッシュフローも一定水準を保つ。言い換えれば、キャッシュフローの成長を追う代わりに、社員への還元を積み上げていくモデルだ。
2つ目のモデル(仮にB社)は、成長の機会を見いだせず、業容も付加価値も広がらない。利益やキャッシュフローは一定水準のまま推移し、将来にわたって成長しないモデルだ。別の言い方をすれば、A社は人的資本の価値が高まっていくが、B社ではそれが限定的だということになる。
(資本市場における)企業価値は将来のフリーキャッシュフローで決まる——企業価値算定の代表的手法であるDCF法に基づくなら、両社ともフリーキャッシュフローの成長はなく、その現在価値の総和として計算される企業価値は等しくなる、という整理になる。では、もし両社が実際に資本市場で評価されるとしたら、株価はどのように付くのだろうか。A社とB社で、評価に差は生じるのだろうか。

直感的にはA社の方が魅力的に映るかもしれない。潜在的な成長機会が多そうだからだ。だが、利益とキャッシュフローが永続的に成長しないという前提は、両社で同じである。言ってみれば、同じ明るさの灯りが2つ並んでいて、片方だけが少し暖かく見える。そんな違いに近い。
この点を考える上で参考になるのが、弊社レポート「非財務情報は企業価値に寄与するか(※4)」だ。同レポートによれば、非財務情報のうち「平均年間給与」が企業価値(PBR)に対して正の有意な相関を示すことが確認されている。このことから、財務的な条件が同等であっても、付加価値の増分を給与等の形で社員(人的資本)へ還元(※5)し、結果、給与水準が高いA社の方が、資本市場から高く評価される可能性は十分にありそうだ。
ここで改めて留意したいのは、このモデルにおいては、人的資本価値の増加が、将来のキャッシュフロー成長に結び付くものではないということである。
非財務資本を言い換えて未財務資本と表現し、将来は財務に反映される(だから非財務資本への “投資” は重要なのだ)ことを示唆する向きもあるが、このケースには当てはまらない。
同レポートの分析は、平均年間給与といった定量的でごく限定的な要素にとどまっている。もっとも、仮説を広げれば、人的資本を含む非財務資本の価値向上は、資本市場から見た企業価値にもプラスの影響として滲み出てくる、と表現することもできる。ここでは深追いしないが、さらに踏み込めば、そのメカニズムは強固なサステナビリティ経営の実現、ひいては資本コストの低減につながる可能性を示唆している。

考えてみれば、私たちはお金に換算できない価値に囲まれている。むしろ、その方がほとんどと言ってもよいだろう。例えば、人生のパートナー選びを思い浮かべると分かりやすい。経済的な観点だけで判断するなら、相手の現在の資産・負債や、いわゆる経済的な将来性が判断材料になる(まさにDCF法による企業価値評価と同じではないか!)。しかし現実には、それだけで決められることはほとんどなく、むしろ数値化しにくい要素が意思決定を左右する。要するに、その相手と人生を共にすることで、2人がどれほど幸せになれるのか、という観点だ。
では、投資先の選択の場合はどうだろうか。伊那食品工業は、社員の幸せを最優先に据え、「年輪経営」を貫いている。こうした「愛される会社」の企業価値は、キャッシュフローには表れない価値をどこまで映し出せるのか。今後のさらなる検証が求められる。

(※5)これを「人的資本投資」と言い表すことが多いが、人的資本は調達する対象であり、財務資本と同様に還元という用語を用いた(参照:大和総研 コラム「人的資本の捉え方」2025年7月30日)

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神谷 孝
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マネジメントコンサルティング部

主任コンサルタント 神谷 孝