日本のフィジカルAIの成否の鍵を握る「暗黙知」
2026年07月13日
日本政府が新たな成長戦略の重点分野の一つとして位置づけるフィジカルAIは、ロボットなどを通じて現実世界での作業を担うことが期待されている。フィジカルAIの活躍が見込まれる製造業やサービス業は、日本が高い品質を強みとしてきた領域である。その品質を支えてきたのは、現場で培われてきた経験や勘といった「暗黙知」の積み重ねだとされる。こうした日本の強みをAIに取り込み、再現することは容易ではない。マニュアルや仕様書に記載された知識だけでなく、人間が現場でどのように判断し、どのように行動しているのかを学ばせる必要が出てくるからだ。
そもそも暗黙知とは、個人の経験や勘、身体感覚などに基づく知識であり、他者に説明することが難しいものである。例えば、わずかな違和感から不具合の兆候を察知する、対象物の状態に応じて動作を調整する、といった熟練者の判断は必ずしも言葉やマニュアルで共有できるものではない。さらに厄介なのは、こうした知識が本人にすら明確に自覚されているとは限らない点である。そのため、暗黙知を形式知にすることには、うまく言語化できないという問題にとどまらず、そもそも何を言語化すべきかが明確でないという、より根本的な困難を伴う。
こうした中で、言語化を経ずに、人間の行動そのものをデータ化しようとする動きが出ている。例えば、米Meta Platforms社(以下、Meta)は2026年4月、米国拠点の従業員を対象に、マウス操作やキー入力といったコンピューター上の行動データをAIの学習用に収集する取り組みを開始した(※1)。人間がどのようにアプリケーションを操作しているのかを記録し、その手順や流れをAIに学習させることで、業務をより自律的に遂行できるAIエージェントの開発につなげることが狙いである。こうした試みは、従来のマニュアルや仕様書では捉えきれなかった「仕事のこなし方」をAIに学ばせようとするものであり、暗黙知のデータ化という観点からも注目される。
もっとも、このようなアプローチは新たな課題も伴う。従業員の行動データの収集には、どこまでがAIの学習に必要な範囲であり、どこからが過度な監視に当たるのかという、線引きの難しい問題が内在する。実際に、前述のMetaの取り組みをめぐってはプライバシーや監視への懸念が示され、同社は収集の一時停止機能や適用除外申請の仕組みを導入したと報じられている(※2)。暗黙知を把握するために人の行動そのものに踏み込むほど、その収集方法はセンシティブな領域に接近していく。
暗黙知をAIに取り込む試みは、単なる技術課題にとどまらない。従業員の行動をどこまで収集するのかというプライバシーの問題に加え、自らのノウハウの提供を人事評価や報酬にどのように反映させるのかといった、インセンティブ設計にも関わってくる。また、蓄積された知識がAIによって再現可能になれば、自身の役割や雇用に対する不安を抱く人も出てくるだろう。
AIの高度化が進む中で、人間の知識や行動そのものが重要な学習資源になりつつある。その際に問われるのは、AIの性能をいかに向上させるかだけではなく、人々の信頼や納得を前提とした知識共有の仕組みをいかに構築するかである。暗黙知という強みを持つ日本にとって、その仕組みづくりの巧拙は、フィジカルAIを成長につなげられるかどうかを左右することになろう。
なお、6月下旬には、収集データの中に機密性の高い情報が含まれており、それが社内で想定以上に広く閲覧可能な状態になっていたことが判明し、同社はデータセキュリティ面の調査のため取り組み自体を一時停止したと報じられている。
このコンテンツの著作権は、株式会社大和総研に帰属します。著作権法上、転載、翻案、翻訳、要約等は、大和総研の許諾が必要です。大和総研の許諾がない転載、翻案、翻訳、要約、および法令に従わない引用等は、違法行為です。著作権侵害等の行為には、法的手続きを行うこともあります。また、掲載されている執筆者の所属・肩書きは現時点のものとなります。
- 執筆者紹介
-
経済調査部
主任研究員 田邉 美穂

