君子の学は通ずるが為に非ざるなり

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2007年02月21日

  • 山中 真樹

昨年の8月8日付でこのコラムに「英語教育と国語教育」と題した文章を書いた。小学校における英語教育の導入につき肯定論、否定論双方を踏まえ、小学校において英語教育を必修化する以上、国語教育をなお一層拡充すべきである。とりわけ古典教育、特に漢文教育を素読でもよいから小学校段階より導入することが望ましいとの趣旨を書かせて頂いた。

思いが通じたということでもなかろうが、その後、学習指導要領の見直しを進めている中教審の教育課程部会が、小学校の国語の授業に「暗記と音読」を重視した古文・漢文教育を導入する方向で検討に入ったとの報道がなされた。筆者の提言と同じ方向の動きであり是非とも実現して欲しいものである。

ところで昨年来、教育関連の話題で世間の耳目を集めているのは、なんといっても一部の高等学校における所謂「履修不足問題」、必修科目を履修させていない(まま卒業させている)問題である。いま「一部の」と書いたが、数百校規模で当該問題が発生している以上、これはもはや個別の異例事態ではなく、構造的な問題が発生していると認識することが適当であろう。

なぜこのような事態が生じたかと言えば、学生のためを思ってやったにせよ、学校サイドの功名心でやったにせよ、大学入試と関係のない教科は教える必要がない、少なくとも重要性が著しく低いとの判断があったということであろう。昨今の大学入試をめぐるわが国の社会環境に鑑みれば、心情的に理解できない面がないわけではないが、決して容認することはできない。それは単に学習指導要領が法的な拘束力をもつから云々というだけではなく、学校とは何のために存するのか、人はなぜ学ばなくてはならないのかという本質にかかわる問題だからである。

さて、本コラムの表題「君子の学は通ずるが為に非ざるなり」は荀子のなかに書かれた孔子の言葉である。「学問とは出世・名声のためにするのではない」との意であろう。もちろん大学入試に「通る」ためではない。数千年の時を経て、孔子の叱責が聞こえてくるようである。

この言葉に続けて孔子は学問をする意義につきこう語っている。「窮して困しまず、憂ひて意衰へず、禍福終始を知りて心惑はざるが為なり(学問とは、窮したときに苦しまないため、憂えても気力を失わないため、物事の道理を知って迷わないために行うものだ)。」

人間の本質とは数千年を経ても変わらないとの思いを強くする。ここに古典の古典たる所以があり、古典を学ぶ意義がある。古典・漢文教育を軽視したから、「履修不足問題」が生じたなどと短絡的なことを言うつもりはないが、教育者とて追い詰められたときには誤った判断をしかねない。そのとき基準となるのはやはり古典をおいて他にはないのではなかろうか。

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