高まる英国医療制度への不満
2023年07月28日
日本ではあまり一般的に知られていないように思うが、英国にはNHS(National Health Service)という公的医療保険制度がある。16歳以上の就労者は保険料の支払いを義務付けられる一方、英国在住者であれば、原則、無償で医療サービスを受けることができる。
ただし、NHSにおいては、全ての医療機関に自由に無料でアクセスできるわけではない。NHSの加入者はGP(General Practitioner)と呼ばれる総合診療医をかかりつけ医として登録する必要があり、救急の場合を除いて、診療が必要な際にはまずGPに相談する。そして、必要に応じて、より専門性の高い医師やサービスをGPから紹介してもらう仕組みとなっている。
このGPを中心としたNHS制度において長く問題となっているのは、待遇の悪さなどを背景とした慢性的な人手不足と、それによる予約の困難さ、待ち時間の長さである。NHSが実施した調査によれば(※1)、GPの予約を試みた患者の15.9%は予約を取るに至らず、予約を取るに至らなかった人のうち43.4%は予約をオファーされなかった、31.8%は希望する日程での予約ができなかったと回答している。また、オファーされた日程が遅すぎたと回答した人も11.2%に上る。筆者の経験でも、そもそも新規のGP登録を受け付けている医師が限定されており、登録可能な医師を探すのに苦労した上、予約は1ヵ月以上先の日程を提示された。専門的な治療や相談が必要となる人は、さらに専門医の診断を受けるまでに待ち時間が発生するとみられ、こうした待ち時間の長さはより深刻な問題であろう。実際、イプソスが実施した世論調査では(※2)、英国が直面する最大の問題としてNHSを上げた人の割合(複数回答)は2023年7月調査で33%と、インフレ/物価(39%)に続いて2番目に高い割合となっている。
また、こうした医療を取り巻く問題は、個々人の生活のみならず、英国経済にとってもマイナスに働いている可能性がある。16歳から64歳の非労働力人口を理由別に見ると、「長期疾病」を理由とする非労働力人口は2018年をボトムに増加傾向が続き、足元では全体の3割弱と最大の割合を占めている。当然ながら2020年以降は新型コロナウイルスの感染拡大の影響などもあり、必ずしもNHSだけにその原因を求めるべきではないと思われるものの、医療へのアクセスの悪さが、人々の労働参加に一定の影響を与えている可能性は否定できない。
スナク首相は、2023年1月に行った年頭演説で5つの優先事項の1つとしてNHSの待機リスト削減を掲げ、そのために省庁再編などに取り組んできた。しかし、現時点で目立った成果が得られているとは言い難い。英国民の関心の高さに鑑みれば、2024年中の実施が予想される総選挙ではNHSが重要な争点になる可能性が高く、保守党、労働党ともに、今後さらなる対応策を打ち出すと見込まれる。エコノミストとして、また英国在住者としてその動向を注視していきたい。
(※1)NHS, “GP PATIENT SURVEY National report 2023 survey”
(※2)Ipsos, “Concern about the NHS rises while inflation remains the biggest national worry,” July 2023
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- 執筆者紹介
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ロンドンリサーチセンター
シニアエコノミスト(LDN駐在) 橋本 政彦
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