戦争は平和の諸問題からの臆病な逃亡に過ぎない

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2023年06月09日

“War is only a cowardly escape from the problems of peace(戦争は平和の諸問題からの臆病な逃亡に過ぎない)”

これは、1929年にノーベル文学賞を受賞したドイツ人作家、トーマス・マンの言葉である。ロシアのウクライナ侵攻開始からすでに15ヵ月が経過した今、ナチズムの危険性を指摘し、ナチスへの不服従を訴え続けた勇気ある作家の言葉は、最近にわかに注目されはじめている。

モスクワにいる旧友によれば、市内でも足や手を戦火で失った帰還兵が目立ちはじめ、徐々に戦時下であるということが実感されるようになってきたという。市内の地下鉄を待つ若者に話しかけたら、兵士として赴いたウクライナで両足を失い、歩行器で電車に乗る訓練をしているところだった、というエピソードも教えてくれた。筆者が小学生のころ、上野駅の近くで、太平洋戦争で両足を失った帰還兵がアコーディオンを弾きながら生活の糧を求めていたことを思いだした。

ただ旧友曰く、買い物をする分にはウクライナ侵攻の影響はほとんど感じられないという。ロシアは経済制裁下にあるとはいえ、スマートフォンや自動車などの西側製品は戦前と変わらず購入でき、食料価格も安定しているというのには驚いた。ロシアの2023年4月のインフレ率も僅か前年同月比2.3%上昇と3年来の低水準であり、生活費危機が騒がれる英国の同8.7%上昇を大きく下回っている。アルメニアやカザフスタン、セルビアなど親ロシアの第三国を経由した、ロシアへの制裁対象製品の並行輸出は爆発的に増加しているが、これを取り締まることができていないのが実情という。例えば、これまでロシアに洗濯機を輸出したことのなかったカザフスタンは、2021年に10万台を輸出していることが通関記録から明らかになっている。

ウクライナのゼレンスキ—大統領の直接参加で注目度が高まったG7広島サミットで、対ロシア制裁の厳格化が発表されたのは、これまでの制裁が当初期待された効果を発揮できていないことの裏返しともいえる。ロシア中銀の外貨資産凍結やオリガルヒの取り締まり強化、重要部品の対ロシア輸出禁止といった厳格な制裁発動にもかかわらず、ウクライナ侵攻に関するロシア政府の方針転換を促すには至っていない。

2023年9月上旬には、国連年次総会とG20サミットという重要な外交イベントが予定され、そこでは戦争長期化への懸念から、ウクライナの反転攻勢がどのような結果を招こうとも、ロシアとウクライナに停戦交渉の席に着くべきという大きな圧力が生じると予想されている。無論、様々な条件が満たされる必要のある停戦は、開戦より圧倒的に困難であり、当事国のみならず支援にまわる各国の様々な思惑が交錯する。しかし、よくよく考えてみると、トーマス・マンが指摘するように、戦争は平和を実現させるための複雑な問題から逃れるため、結論を武力によって強いる臆病な手段に過ぎない。確かに人類の歴史において、戦争はしばしば紛争解決の手段となってきたものの、当事者以外が中立の立場に立たず、どちらかに肩入れすることがむしろ戦争を助長していることに気づいている人は少なくない。どのような形で停戦が合意されるかは誰にも分からないが、戦争の早期終結を願うばかりである。

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菅野 泰夫
執筆者紹介

金融調査部

主席研究員 菅野 泰夫