賃上げよりも大切なもの

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2023年04月03日

  • 児玉 卓

賃上げをめぐる議論が盛んだ。今に始まった話ではないのだが、昨年来のインフレ加速を受け、デフレからの脱却を確実なものとするために、あるいは成長と分配の好循環を実現するために、賃上げは善であり、不可欠でもあるという声が優勢になっている。

もっとも、当たり前だが、インフレに追随するだけの賃上げでは成長と分配の好循環は生まれない。必要なのは実質賃金の上昇であり、それには生産性の上昇が不可欠だ。それが伴わなければ、企業の余力(分配率の引き上げ余地)が尽きた時点で、企業は賃上げを停止するか賃金コストの上昇分を商品・サービスの販売価格に転嫁するほかはなくなる。後者については、そうした動きが広がることで実質賃金が圧迫される。いずれにせよ、経済の好転は始動しない。始動したとしても持続的なものにはならない。

報道等を見る限り、企業が(これまで以上に)賃上げに積極的となっている一番の理由は、やはりインフレ率の加速のようだ。であれば、まずは出発点から実質賃金の上昇が実現するか、慎重に見極める必要があろうし、生産性については、すべては「これから」である。今春の賃上げの効力に、あまり前のめりに期待するのは控えておくのが無難であろう。

ただし、インフレ後追いであったとしても、名目賃金の上昇が日本の労働市場の改善に一定の効果を発揮する可能性はある。かねて賃金には下方硬直性があるといわれているため、賃金が上昇している環境下では、そうでない場合に比べて資源配分の見直しを行いやすくなると考えられるからだ。例えば男女間賃金格差の是正を、名目賃金が上昇しない中で行おうとすれば、男性賃金を下げなくてはならなくなる。全体としての賃金が上がっていれば男性賃金の引き下げを回避しながら、格差の縮小を図れるようになる。男女間だけではなく、正規・非正規、年齢階層別など、日本には生産性等から説明できない賃金の歪みが相当存在していると考えられ、名目賃金の上昇はその緩和を進める端緒となり得る。とはいえやはり、賃金の上昇がインフレの後追いである限り、輸入物価の沈静化に伴って名目賃金の上昇も止まる。資源配分の適正化を本格的に進めていくためにも、実質賃金の上昇、従って生産性の改善が不可欠ということになるのであろう。

では、何が生産性引き上げのカギを握っているのか?人だろうか、企業だろうか、あるいはシステムだろうか?このところよく耳にする「リスキリング」の重視は個々の働き手の能力等に関する議論だ。年功賃金や長期雇用などの「メンバーシップ型」雇用慣行が、適材適所の障害となって生産性改善がままならないという見方もある。「ジョブ型雇用」への移行が望ましいという論者は少なくない。

人あっての企業であるしシステムでもあるから、これらを頭から否定するわけではないものの、私見では生産性を左右する一番の要因は企業経営にある。その傍証となるのが、非正規雇用のシェアの趨勢的な拡大である。非正規雇用のシェア拡大は、名目賃金の上昇を阻む一因となってきたと評されることが多いが、やはりここでもより重要なのは実質賃金との関係である。つまり企業は非正規雇用者に対応可能な、技術的難易度が比較的低く、熟練を要しない類いの仕事(ジョブ)をより多く作ってきた。言い換えれば、相対的にではあれ、高い実質賃金を支払うに値する、生産性の高いジョブの創出に失敗してきたということだ。そうであれば、働き手がいくらスキルを高めても、宝の持ち腐れということになりかねない。システムとしてジョブ型雇用を進めても、そのジョブの質が低ければ、全体的な生産性向上は見込めない。

従って企業に期待されるのは足元の賃上げそのものではない。高い賃金に見合う良質なジョブの創出である。賃上げをこのような経営問題としてとらえて初めて、成長と分配の好循環始動の可能性が生まれるのではないか。

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