「鳥の目」と「虫の目」

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2023年03月20日

値上げのニュースには耳が慣れてしまっているものの、実際に買い物に出かけて値段の表示が高くなっているのを見ると、その度に驚いてしまう。私は牛乳をよく買うのだが、牛乳の価格も徐々に上がっている。総務省の「小売物価統計調査(動向編)」によると、今年1月の牛乳1,000mlの価格は東京都区部では235円と、4年前(2019年1月)の207円から28円上昇している(上昇率は+13.5%)。原油高による光熱費の上昇、円安やトウモロコシ等の飼料価格の上昇が、値上げの要因となっている。

ただし、牛乳の場合は他の食品とは少々事情が違うようだ。価格は上がっているが、生産現場では牛乳の原材料となる生乳が余っているのである。これまでメーカー各社は、新商品の開発や料理のレシピ紹介等により消費者の購買意欲を高めようと努めてきたが、需給バランスを戻すまでには至っていない。

貯蔵性のない生乳の需給バランスを維持するのは難しい。過去には2014年に「バター不足」が起きた。経産牛(出産を経験した雌牛)の頭数が徐々に減っていた中、猛暑の影響も加わり、生乳の生産量が減少したことが原因だった。これを機に国内では酪農家に対して増頭を支援する政策が打ち出され、経産牛は2020年度を境に増加に転じた。しかし、新型コロナウイルス感染拡大により学校給食が一時休止となったこと等の影響は大きく、生乳の需要は減少した。そのため、生乳需給改善対策として、2023年3月から生産者が早期に経産牛をリタイアさせ、一定期間、生乳の生産抑制に取り組む場合、生産者団体等の一定の負担を要件に奨励金が交付される。酪農の事業環境が原因とはいえ、この10年での政府の方針や支援策の変化は大きかった。2014年以降に生乳生産量を増やす投資を行ってきた酪農家の中には、今回の需給調整終了後に再び投資して経営規模を拡大すべきか、それとも控えるべきかを悩む人が少なくないだろう。

このように、外部環境の変化から、かつて決めた中長期的な方針を見直したり、方針自体は変わらずとも具体的な施策を一時控える決断をしたりすることの難しさは、企業経営にも通ずるものである。例えば、経営計画で掲げた10年後の売上目標達成に向けて生産設備の拡張を決断しても、設備稼働率が半分程度の状態で需要の伸びが止まると、重くなった投資の償却費負担が収益率や資金返済力の低下を招いてしまう。10年後の売上目標そのものを見直すのか、需要の鈍化を一過性とみなして当初の計画通りに進めるのか、または他の戦略をとるのかなど、選択肢は多い。また、いずれの選択肢も多くの場合は相応の合理性があるため、決断が難しくなろう。

経営判断をする時点で、それが将来的に「正しかった」と証明することは出来ない。だからこそ、意思決定した側(政府、経営者など)が、現在の状況をどのように捉えているか、過去に掲げた目標が現状からみても合理的といえるかを、関係者(酪農家、株主、従業員など)に伝えることが重要である。生乳の場合、農林水産省が国産チーズ向けの原料乳の競争力を強化する姿勢を示している。チーズは味や商品のバラエティの点で、輸入品の競争力が国産品よりも高い。同省は、足元の生乳の需給改善のため経産牛の早期リタイア奨励に係る対策の予算を50億円計上しているが、これを上回る約53億円の予算で、味や歩留まりに影響する国産原料乳(生乳)の品質を高める取り組みに奨励金を交付する。足元の生乳の需給改善では供給抑制を優先するが、長期的には生乳の向け先を拡大して生乳生産量の増加に対応しようとするメッセージである。個々の酪農家でこのメッセージの解釈は分かれるとは思うが、今後の意思決定の参考にはなるだろう。

3月も残り10日ばかりとなり、間もなく3月期決算の上場企業の決算発表シーズンを迎える。これにあわせ、中期経営計画を新たに発表する企業や修正を行う企業も現れよう。最終ゴールとなる目標値が注目されやすいが、経営陣の足元の外部環境に対する見方、目標の達成に向けたプロセス等の情報、メッセージにもぜひ注目したい。経営陣が、大所高所から見た「鳥の目」でどのような最終ゴールを設定し、足元の状況を「虫の目」でどのように観察・分析しているかが伝わってくるはずだ。

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中村 昌宏
執筆者紹介

金融調査部

主席研究員 中村 昌宏