デパートは何処へ行った

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2023年01月30日

今年は、わが国で初めてデパートメントストア宣言を発した三越の創業350周年である。

そもそもデパートメントストア=百貨店とは何か。戦前に制定された百貨店法では同一店舗で衣食住に関する多種類の商品を扱うこと、一定以上の売場面積を持つことが要件だった。法ではなく、出自から読み取れる第3の要件は様々な文脈でハイクラスなことだ。デパートメントストア宣言が発せられた1904年(明治37)の前に、テナント方式で多種類の商品を扱う共同店舗「勧工場」があった。当初は内国勧業博覧会で出品された製品を販売する商業施設だったが、競争激化の末に安物イメージが付いてしまった。これに代わる業態として登場したのが百貨店だ。老舗呉服店の持つハイクラスな雰囲気が、当時成長しつつあった都市の中間層に膾炙した。

とはいえ、筆者の子ども時代の記憶をたどると、それが総合スーパーでも中心街にあって多層階なら「デパート」だった。冒頭のデパートメントストアとは多少異なりハイクラスかどうかはそれほど関係なかった。80年代、多くの地方都市では、百貨店か総合スーパーかの区別はなく、最上階に食堂があり、休日に屋上でアイドルやヒーローのショーをやっていた大型店が「デパート」と呼ばれていたと思う。たしかに、ダイエーやジャスコなど総合スーパーも地方都市の拠点店舗は百貨店を意識したフロア構成になっていた。地元の百貨店が総合スーパーの傘下に入る例も多々あった。

そのうち、総合スーパーは専門店や量販店を取り込んだショッピングセンターに発展する。ショッピングセンターは不動産賃貸業である点で小売業と区別されるが、総合スーパーが目指したのは単なるテナントビルではなく、統一したマーケティング戦略をもってテナントを編集するタイプの商業施設だった。テナントから定額の家賃を取るのではなく、テナントの収益に連動した使用料を得るシステムだ。

この間、百貨店の取引モデルも変化した。売場を囲って疑似ショップ化し、スタッフを含め運営をメーカーに任せたうえで、売り上げた分だけ百貨店の仕入に計上する「消化仕入」が主流になってきた。不動産業と小売業とで枠組みは異なるが、双方とも集権と分権をミックスした業態という着地点は同じだ。ショッピングセンターの百貨店化、百貨店のショッピングセンター化といえそうだ。

ふりかえれば地方都市でスーパーは百貨店を目指して総合化し、迎え撃つ側の百貨店が大衆化を進めた結果、両者の区別があいまいになってきた。「デパート」の誕生だ。

デパートを巡る風向きが変わったのは90年代後半である。70年代に参入した総合スーパー勢は中心街に見切りをつけて郊外に出ていった。商品ラインが拡がりアイテムが深くなるにつれ、種目数は変わらなくとも売り場は大型化せざるを得ない。売場面積の「相場」が数万㎡に高騰する中、既存店舗がひしめく中心市街地でさらなる大規模化には限界があった。言うまでもなく車社会化が郊外流出に拍車をかけた。

思い出のデパートは何処に行ったのか。経緯を辿ればそのひとつは巨艦モールに形を変えた。一方で、その多くが中心街に残った地方百貨店は続々と閉店している。こちらも思い出のデパートが辿った現実である。もっとも閉店を余儀なくされたのは、総合スーパーとの競争でデパート化した百貨店だ。地方都市でも、伝統的なハイクラス業態を守り地元で踏ん張る百貨店はある。総合スーパーとの競争に流されることなく、デパートメントストアの精神を残した老舗の百貨店だ。

小売業にとって良くも悪くも転機となるのが、車社会化に続くパラダイムシフト、すなわちネット通販の登場だ。ネット社会において、車でまとめ買いできることはアドバンテージにはならない。巨艦モールとはいえアイテム数では通販サイトにかなわない。ここで伝統的な百貨店ビジネスが強みとなる。

ネット通販の弱点は新しい商品を来て、見て、触って確かめることができないことだ。屋敷売り以来の蓄積を基にした、通販サイトのレコメンド機能を上回るアドバイス力、逸品のエピソードを語れる説明力が逆襲の決め手となる。これは、慎重に品定めしなければならない高級品と相性が良い。安物イメージで衰退した勧工場に対抗して生まれた百貨店。その黎明期においてデパートメントストア宣言に込められた本質がネット社会で蘇る。

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鈴木 文彦
執筆者紹介

政策調査部

主任研究員 鈴木 文彦