東京五輪開催の是非の意見の分断に思う「知情意」の大切さ

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2021年08月18日

コロナ禍の東京オリンピック・パラリンピック2020の開催の是非において日本国民の意見が分断された。五輪開催という国際的な責任を果たすべきか、“ゼロリスク”と呼ばれる水準まで新型コロナ感染症の抑制のために中止(延期)すべきかという2つの「公益」が相反した。両者の意見は尊重すべきではあるが、まずは開催中、その前後で感染患者に対応している医療関係者の方々、開催の当事者である、ボランティア、大会運営事務局等の方々の尽力には心から感謝することが重要であろう。

まだパラリンピックの開催が控えているが、閉会後は、今回のような感染症などが爆発的に発生する非常時での政治の在り方、十分な病床確保等ができなかったという医療体制の構造的な問題、経済政策と私権の制限を含むコロナ抑制政策のバランスの取り方など、様々な問題を整理して議論すべきではある。確かに様々な意見を汲み取ることも重要であろう。しかし、上記のような意見の分断を生み出すような循環を断ち切り、建設的な解決方法を目指す目的を共有して、議論を始めるべきであろう。

ここで思い出されるのが、夏目漱石の『草枕』という小説の冒頭に出てくる一節である。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。今の社会に当てはめれば、あまりにも浅はかな知識を振りかざして、感情あるいは情緒をコントロールできずに、自己中心の価値観を押し付けようとすれば、世間は住みにくいということである。ネットを含めたあらゆるメディアにおいて「智」(知)の振りかざしのような「意」が多く見られる議論は、大体の場合、価値観の分断を生むだけで、漱石が言うように人の世を住みにくくするといえよう。

価値観が多様化し、それを大切にしていこうとする機運が高まり、SDGs、ESGなどの考え方が昨今本格的に浸透しつつある。このため、違う価値観の間で尊敬の念が生まれている。その一方、上記の知情意のバランスが取れていない中で、自分の価値観を押し付けることも散見される。「智」が不足したままでの熟慮されない意見で価値観の否定のみをする傾向が続くと、必要のない価値観の分断を生みつづけることとなる。このような価値観の分断は、米国で見られたトランプ前大統領が唱えた「米国第一主義」により米国民の間に生まれた極端な価値観の分断に類似していると考えられる。一旦分断した価値観をもとに戻すのは難しい。今からでも国民一人一人が知情意のバランスを取ることの重要性を認識すべきではないだろうか。

他方、「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い」と漱石は続ける。これを解釈すれば、オリンピアンとこれを支えた方々はパフォーマンスを表現し人々を感動させることから「芸術の士」であると思う。それだけではなく、知情意のバランスも取れているはずだ。自分のパフォーマンスを最大限発揮するためには、猛烈な練習で「智」を蓄積し、普段の生活と長期にわたる弛まない努力とのバランスを取ることで「情」を抑制し、「意」を表現し、感動を生む。多くの人がオリンピアンから学ぶのは知情意のバランスではなかろうか。それがないと、「…人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかり」である。「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」。

あらゆる情報が手に入る利便性はメリットを生む反面、デメリットも生む。情報を仲介するメディアだけに頼らず、「意」を唱えるのであれば、あらゆる情報に触れ、その質を自分で考えて、「智」を高めた上で、情緒をコントロールし、判断することが重要であろう。それが「人でなしの国」にならない近道ではないか、という100年以上前の先人の知恵であろう。自分自身も知情意のバランスが十分に取れているか怪しいが、そのような人間になるように日々研鑽していくつもりである。

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内野 逸勢
執筆者紹介

金融調査部

主席研究員 内野 逸勢