IoT社会に広がるナッジ

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2015年12月17日

  • 岡野 武志

「ナッジ(nudge)」とは、「ヒジで軽く突く」というような意味で、行動科学や行動経済学の分野では、人々がより良い行動を選ぶよう促すことなどを表す用語として使われている。選択肢が多過ぎる場合や内容が複雑な場合、結果からのフィードバックに時間がかかる場合などには、本人が必ずしも最良の選択をして行動するとは限らない。そのような場合に、規制や強制ではなく、本人の利益になる選択を促す仕組みや仕掛け(ナッジ)が効果を発揮することがある。社員食堂のショーケース内の配置を決める際に、低カロリーで栄養バランスの良いメニューを目立つところに置き、社員に選ばれやすくすることで、生活習慣病予防に役立てることなどもナッジの一つといえよう。

OECDによれば、政府や規制機関によるナッジの利用は、英国や米国を中心に世界的な傾向として拡大しているという(※1)。英国では2010年に政府組織として「ナッジ・ユニット(正式名称:Behavioural Insights Team:BIT)」(※2)が設立され、選択の仕組みにナッジを組み込んで国民により良い行動を促すとともに、コスト効率よく政策効果を高める試みが進められてきた。米国でもオバマ大統領の意向でナッジ導入が検討されてきた経緯があり、2014年には国家科学技術会議(National Science and Technology Council:NSTC)の下に、専門家組織として「社会及び行動科学チーム(Social and Behavioral Sciences Team:SBST)」(※3)が設置されている。

BITやSBSTの報告書では、社会保障、教育、健康、環境などの幅広い分野でナッジを試行した事例が紹介されており、情報提供方法の改善や望ましい選択肢の優先表示、手続きの容易化などを通じ、再就職者が増加した例や貯蓄プランへの加入率が上昇した例なども報告されている。このような事例や成果を踏まえオバマ大統領は、国民へのより良いサービスのために行動科学の知見を活かすことを求める大統領令を発出した(2015年9月)(※4)。大統領令は政府機関に対して、ナッジが有効な政策や業務等を特定し、ナッジを適用する戦略を立てることを推奨しており、NSTC(SBST)に対しては、この大統領令に関する政府機関の活動を取りまとめ、2019年まで毎年報告することを求めている。

大量の情報が氾濫し複雑化が進む社会では、日常生活の中でも、状況を冷静に把握し何が最良かを的確に判断することが難しいことも多い。面倒で読まない郵便物や不必要でも自動更新している契約なども珍しくない。一方、センシングや情報通信の機能が張り巡らされると、人々の選択や行動に関する情報はこれまで以上に集まりやすくなる。人工知能が発達すれば、集められた大量の情報の中から、人々が選択を誤る傾向や偏った行動をとるメカニズムなどを抽出することも容易になろう。財政が逼迫する政府や厳しい競争を戦う企業にとって、大きなコストをかけずに成果の向上が期待できるナッジは魅力あるツールの一つとなり、さらに利用が広がる可能性もある。

ナッジが有益に機能するためには、サービス提供者が利用者の利益になる選択肢を選定する能力を持つことが前提となる。利用者の信頼を裏切り、自らの利益や隠れた目的に誘導する企みなどを抑制する仕組みも必要かもしれない。一方、利用者の側もナッジを安易に受け入れるだけでなく、リテラシーを高める努力を続けていくべきであろう。現実と真摯に向き合わない惰性や同調は、時として社会を誤った方向に動かす恐れがあることも忘れてはならない。

<おすすめ関連レポート>
「ナッジ」で変える個人投資家行動 -オバマ政権が行動科学の応用に関する大統領令を発出-
(2015年12月4日:金融調査部 主任研究員 鈴木 裕)

(※1)OECD “Behavioural economics”
(※2)BITは現在、Cabinet Officeをパートナーとする企業として活動している。http://www.behaviouralinsights.co.uk/
(※3)“Social and Behavioral Sciences Team” 
(※4)The White House “Executive Order -- Using Behavioral Science Insights to Better Serve the American People”

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