「結論」と「手続」

ガバナンスは人のためならず

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2014年04月22日

  • 金融調査部 主任研究員 横山 淳

あらかじめ断っておくが、最近話題の科学論文を巡る話ではない。

わが国に限ったことではないかもしれないが、「『結論』さえ正しければ、『手続』(プロセス)はさして重要ではない」といった論調をしばしば目にする。しかし、今一度、考え直してほしい。ずさんな「手続」により導き出された「結論」を、果たして誰が信頼できるだろうか?仮に、誤った「結論」が信頼されないだけなら、誰も困らないかもしれない。しかし、正しい「結論」に対する信頼が地に落ちたら、その影響は決して小さくない。その意味では、「結論」が正しいときこそ、「手続」は重要なのである。

例えば、訴訟を担当する裁判官が、一方の当事者の関係者であった場合、いかに公正な判決を下したとしても、疑いの目で見られることは避けられない。司法への信頼を確保する観点から、事案や当事者と一定の関係を有する裁判官を排除する「裁判官の除斥」という仕組み(民事訴訟法23条など)が設けられているのはそのためである。

また、原則、衆参両議院で可決されれば法律は成立すること(憲法59条)からすれば、両議院で多数を占める与党があれば、法案審議をするまでもなく、結果は見えているといえなくもない。それでも丁寧な法案審議が要請されるのは、反対派からの批判にも十分耐え得る内容であることの「説明」を尽くすことが、その法律に対する国民の信頼を得る上で必要な「手続」だからだろう。いかに必要かつ重要な法律であっても、いわゆる強行採決で成立させれば、国民の納得を得にくいことは、過去の事例が物語っている。

そろそろ本題に入ろう。コーポレート・ガバナンスを巡る議論でも、しばしば「社内の事情に疎い社外者に、正しい経営判断などできるはずがない」といった論調を耳にする。これも「『結論』さえ正しければ、『手続』はさして重要ではない」と基本的に同根の主張だろう。

ずさんな「手続」(=コーポレート・ガバナンス)の中で、十分な「説明」もなしに下されれば、その「結論」(=経営判断)が、市場、投資者、株主などの信頼を得ることは困難であろう。誤った「結論」が信頼を失うことは当然としても、正しい「結論」まで信頼を得られないとなると、その企業自身のみならず、社会・産業・経済にとっても大きな不幸・損失である。その意味では、政府や取引所が、真面目な経営者が正しいと信じて下す「結論」が信頼されるために、最低限必要な「手続」(及びそれに伴う「説明」)を制度化しようとしていることは、当然のことだといえるだろう。

それでもなお画一的な制度化に反対し、「個別企業の自主性に委ねるべきだ」と反論する資格があるのは、「ガバナンスは人のためならず。客観的な監督、評価手続を受けていることこそが、自分の信頼の源泉であり、強みである」と胸を張っていえる者だけだ、筆者にはそのように思われる。

え? そういうお前はどうなのか?

原稿に厳しくダメ出ししてくれる上司、審査担当部署、そして読者の皆様の存在こそが、筆者の信頼の源泉であり、強みである。そう胸を張っていえる人になれたらいいなあ…。

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