外国語をどう面白く学ぶか?

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2010年10月21日

  • 金森 俊樹
最近、会社内で英語を公用語にしてはどうかという経営者が現れ、外国語学習に関心が集まっている。二つ以上の外国語修得を、昇進の条件にすると述べている経営者もいると聞く。この問題自体は、各企業、事情が異なるわけであるから、それを踏まえてそれぞれが判断すればよい話だと思うが、個々人にとってはなかなか大変な問題だ。外国語は面白く学べるのか?筆者自身、これまで仕事の関係上、職場で英語の他、露語、中国語を使う機会があった。どれも使わないと忘れるが、これら言語を学ぶ過程で面白いと感じたことは結構覚えているので、それを独断と偏見を交えて紹介することにより、ヒントを探りたい。

まず露語だが、日本人が最も苦労するのは、名詞、形容詞の格変化と、女性、男性、中性形の区別である。一定の規則性はあるが、面白いことに、「行く」とか「来る」といった、日常最もよく使用する単語に限って、大きく不規則変化をする。これをどう理解するか?これらの単語は当然、言語の発達の初期の段階から頻繁に使用されていたもので、その後、言語が体系的に発達していく過程で、一定の規則性が生まれてきたためではないかと思う。日常語に限って、理屈で習得するのが難しいのは皮肉なことであるが、同時に興味深いことでもある。固有名詞も要注意だ。中性形でない限り、格変化させてしまう。日本語の人名、地名も例外ではない。「ヨコハマ」は、女性形になるので、「ヨコハマモイ」、「ヨコハムウ」となったりするので面食らう。「トーキョー」は幸い中性形なので変化しない。格変化と女性形等に対応関係があるので、名詞と形容詞の修飾関係が、よくも悪くもごまかしにくいのも、露語の面白い点だ(このため、関係者の対立を内包する微妙な合意文書を作成する場合に、英語で玉虫色の解決を図ったものが、露語で顕在化することになる)。動詞の完了形、不完了形の区別も難しい。これは、英語のそれと意味合いが少し違う。とくに命令形の時に、どちらを使用するかによって、大きくニュアンスが異なってくる。概して言うと、完了形は点のイメージ、不完了形は線のイメージではないか。従って、不完了形の命令形を使うと、その動作を相手に催促しているような印象を与え、失礼になってしまう場合があるようだ。また、「完了」と言っているが、実際には、「状況の変化」を表している場合が多い。他方、外国人にとって学びやすい側面もある。たとえば、「話すこと」という意味の単語に、「行ったり来たり」、あるいは「行き着く」というニュアンスの接頭語が付くと、それぞれ、「交渉」、「合意」という単語に、また、「時」を表す単語を複数形にすると「時計」になる。これは、単語の形から意味を類推できる、言い換えれば、英語に比べ単語の形成過程が見えやすいということだと思う。

中国語の文法は、日本語より英語に近いと言われることが多いが、英語と日本語のちょうど中間位ではないか。四声が難しいと言われるが、そもそも何故、同じ漢字圏で、日本語には四声がないのに中国語にはあるのか?これこそ独断であるが、発達した言語として同じ量の情報を発信する必要がある一方、中国語は漢字だけなのに対し、日本語はひらがなやカタカナがあり、その分、中国語には、日本語にはない四声というものが出てきたということではないか。四声について、何か規則性はないのかという質問を中国語の先生にしたことがあるが、即座にないという返答であった。しかし、大量の単語のピンイン(中国語の発音記号)と、それが何声かなどの情報を入力してデータ解析すると、ひょっとしたら何か規則性が見つかるかもわからない。欧米人はよく、「この単語は名詞か動詞か、あるいは形容詞か?」ということを気にする。先生からは、「これは名詞でもあり動詞でもある」とか、「形容詞的動詞である」といったような、よくわからない答えが返ってくる。筆者も最初は気になったが、そのうち、こうした問題設定自体、あまり意味がないと思うようになった。文法的に少し違うアプローチが必要な気がする。それより大きな謎は、所謂自動詞と他動詞、能動態と受動態の区別である。常識あるいは文脈から明らかな場合が多いので、気にする必要はないと教えられたが、それでよいのか、極めて融通無碍に使っているような印象を受ける。

中国語にも完了の「了」があり、文法的にはいくつもの用法がある。最初、これは過去を表す「了」だと教えられることが多いので混乱するが、実際には「状況の変化」(あったものがなくなっ)を表すのに使われる場合が多い。露語でも、完了形は状況の変化を表すという見方が主流になりつつあると聞いたことがある。語源からみてあまり関係ないであろう二つの言語で、これはどう解釈すればよいのか。中国語も、日常よく使う「来」や「去」、「出」、「上」、「下」等の用法が難しい。これも露語に通じるものがあって興味深い。似たような漢字を使う日本人にとって、固有名詞は、露語同様、しかし違った意味でやっかいである。発音がまったく変わってしまうので、誰のこと、どこのことを言っているのかわかりにくい。もっとも、我々も、「コキントー」とか「オンカホー」とか言っているのでお互い様ではある。しかし、それでは何故、中国の地名の呼び方は、日本語読み(ダイレン、シンヨー等)、北京語読み(チンタオ、シャンハイ等)、広東語読み(ホンコン、カントン、ペキン等)が混在しているのか?旧植民地の都市は日本語読み、その他は現地の呼び方に合わせてというようにもみえるが、それだけでは説明しきれない。一度由来を調べると面白いかもしれない。中国語はひらがなやカタカナがないので、欧米からの外来語には、発音と意味の両方を勘案しながら漢字をあてる。熱線、熱銭、電脳病毒、次貸危機などは、何のことか容易に推測できるが、発音からはまったく類推できない。これまで秀逸と思った例は、「迷」(はあなたで、発音はミニとなる)、以前騒がれたライブドアは「活力門」、これを中国語で発音すると、「フオリーメン」、なんとなく「ホリエモン」に聞こえる。

メインランドで使われている簡体文字にも触れておきたい。筆者が習った中国語教師のひとりである台湾人は、(台湾ではなお繁体文字を使用していることもあってか)象形文字という語源を否定するものであると、強く批判していた。日本人としても共感するところはある。しかし、日本語の漢字は、実は大胆に言えば、簡体文字と繁対文字の混合である。また、諸説あるが、簡体文字は、中国の書道家の流麗な達筆を基に開発したもので、理論的にも書き易くなっているという話を聞いたことがある。中国は、初期の経済発展途上の段階でも、他の同様の経済段階の国に比べると、読み書きを始めとする基礎教育は比較的整っていたのではないか。簡体文字を創出したことが、その後の中国の急速な経済発展にどう貢献したのか、難しいが検証してみるのも面白いかもしれない。

いろいろ考えながら学習するのは、外国語を習得する上で、かえってマイナスかもしれないが、成人が外国語を学ぶ場合、所詮幼児が言葉を習得するようにはいかない。学習過程で思考があちこちに飛ぶことによって、興味が沸き、新しい発見があるかもしれない。

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