「援蒋ルート」から見た中国・ミャンマー経済圏の現状

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2010年05月10日

  • 川村 淳一
「援蒋ルート」という名称をご存知だろうか。1939年、日中戦争の開戦後に連合国側が建設し、インドからミャンマー(旧ビルマ)を経由、中国国境の山岳地帯を越えて蒋介石の国民党軍の本拠地である重慶まで、軍事・援助物資を送り届けた道路のことである。「同ルート」主要部は、ミャンマー第二の都市マンダレーから、ミャンマー側国境の町ムセ、隣接する中国側の町瑞麗(ルイリー)を越え、雲南省の省都昆明(クンミン)へ抜ける。ミャンマー軍事政権は、欧米諸国の経済制裁で生じた貿易額の減少を埋め合わせるため、ドル決済が不要な国境貿易の振興を図っており、ミャンマー国境貿易量の6割以上が通過すると言われる「同ルート」を非常に重視している。最近、ミャンマー側からこのルートをたどり、中国・ミャンマーの国境地帯を視察する機会があったので、この地域の現状をお伝えしておきたい。

国境に近づくにつれ検問は厳しくなり、複数のチェックポイントで通行許可書類の確認を受けなければならない。また、ミャンマー国内であるにも関わらず、道端の商店の看板がミャンマー語から漢字表記へ切り替わっていき、北京語を日常語とする人々も居住しているのが全く意外であった。道路事情は思いのほか良く、途中、明らかに荷物の過積載と思われる大型トラックやオートバイが、国境からマンダレー方向へ何台も向かっていたのも目にした。国境のムセ市内では人民元も流通しており、ホテル従業員の言語も北京語と中国経済の浸透度は高い。元々この一帯では、国境と無関係に山岳民族が自由な交流を続けており、地縁・血縁関係も深く、国境ゲートでも深夜・早朝を除き通行証さえ見せれば往来は自由である。まさに改革・開放後の中国広東省と香港・マカオの国境風景を思わせるものであった。

1988年に中国とミャンマーの国境貿易が合法化された後、両国の間で「国境貿易協定」が締結され、5箇所の国境貿易拠点が設置されたことで貿易額は大きく伸びた。1998年には、ムセ国境貿易の輸出入手続きがワンストップ・サービスとして一本化された。現在、ムセ国境貿易地帯は経済特区ではないが、中国側の姐告(ジェーガウン)保税区と連携し、ほぼ実質的な保税区としてのサービスを提供している。中国の通関統計によると、2007年度の通常貿易も含む対ミャンマー輸出額は約16.9億ドル(前年比40%増)、同輸入額は約3.7億ドル(同47%増)で、各々の半分程度は国境貿易が占める。中国からミャンマーへの主要輸出品は、機械類、電化製品、肥料、衣料等で、輸入品はミャンマーの農・水産物が中心である。ミャンマーの輸入超過の背景には、中国からのプラント建設に伴う輸入額の急増が挙げられる。これらの輸入代金や最近着手されたベンガル湾から中国の雲南省までの天然ガス・原油のパイプライン建設費も、多くは中国側が供与する借款等の経済協力資金によって賄われている。

ミャンマーの2007年度統計によると、中国はミャンマーの第1位の輸入相手国で、かつ第3位の輸出相手国であり、中国の対ミャンマー累計直接投資額も、2008年末には国別で第4位と2004年末の第13位から急上昇している。経済制裁によって欧米諸国との交易の道が閉ざされている中で、ミャンマーにとっては中国が最も重要な貿易相手国であろう。中国としても、地政学的にも重要な位置を占めるミャンマーと、一層緊密な関係を構築するはずである。しかるに、日本を含めた欧米諸国の政府・民間企業は、経済制裁のためにミャンマー進出が難しい状況にある。その間隙を縫って中国や韓国の企業がメコン地域へ活発に進出する中で、大和総研としても日系企業の進出に役立つ情報提供をしていきたい。

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