高度情報化がもたらす利便性とその代償

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2010年01月27日

  • 新林 浩司
景気低迷の影響で、巣ごもり消費や内食回帰など、外出せずに家の中で過ごす消費行動を表すキーワードが定着した。家電製品の機能が高まり、自宅で過ごす時間を快適にしていることも一因と言えよう。

テレビひとつを例にとっても、娯楽性が格段に向上している。大画面デジタルハイビジョンで画質はもちろんのこと、サラウンドや重低音による臨場感あふれる音響によって、くつろぎながら手軽に本格的なホームシアターを楽しめるようになった。封切り直後に見ることにこだわらなければ、映画館に行かなくても同様の体感を得られる。また、TVで放映される映画を見ながらインターネット上に場面毎の感想をコメントしたり、他の人と短い会話を交し合うことで、独りではない一体感を得ることも可能である。

ではホームシアターに無いもので、映画館では得られるものは何であろうか。見知らぬ他人が傍に着座していることの意味を考えてみたい。それは公共の場、社交の場としての役割である。

映画鑑賞中、話の展開に笑ったり驚いたりで声が漏れ、そのことで場全体が盛り上がることがある。しかしそれ以外の行動、例えば私語や携帯電話の操作など、他の観客の集中を削ぐ行為はご法度である。これに対して、家では電話しようがメールしようが、ついでに何をしていても勝手である。だが、その自由な環境に慣れすぎてしまっては危険である。

技術の発達によって便利な世界になるほどに、社会の中での行動の個人化が進むようになった。その反面、衆人環視の中での立ち居振る舞いなどのマナーや道徳を自然と身に着ける機会が減ってはいないだろうか。その影響なのか、大勢の人が居る中でも傍若無人な振る舞いを目にすることが多くなった。

昔は自宅に風呂が無い家庭も多く、銭湯に通うことで風呂の入り方をはじめとするマナーが身に着いた。今は幼い頃から自宅で入浴し、行楽地の温泉はレジャーという感覚で育つからか、自宅で入浴しているかのような振る舞いを公衆浴場で見かけることもしばしばである。

行動の個人化によって廃れるのは道徳やマナーだけではなかろう。情報科学の発達を手放しに賞賛するのではなく、その便利さ自体が人の習慣や学びの機会を変化させ、その結果として失うものがないかを考えねばならない。さらには失われつつあるものを補うために、情報技術をどう活用できるかについても想いを巡らす必要がある。

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