ビバ、無差別曲線!

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2007年08月27日

  • 中島 節子
ミクロ経済学の定番、無差別曲線。経済学を学ぶ人がまずお目にかかる曲線なのに、一部の学者からは「役に立たないミクロ経済学の象徴」なんて不名誉なレッテルも頂戴している。肩身の狭いこの曲線に「名誉挽回せよ」と言わんばかりに

「無差別曲線を有益にするには、どのような解釈が必要か」

とお助け船の課題が、こともあろうに経済学が大の苦手な私に振られてしまった。

とはいえ放棄することもできず、まず定義。無差別曲線とは効用水準を一定とした財の消費量の組み合わせの集合である(図1)。そこで自分の興味の対象を軸にして取り得る行動を無差別曲線上に表せる、とする。無差別曲線を構成する点は、自分の主観的満足度(utility)を表すものなのだから、自分で描いた無差別曲線上の点を選択するかぎり、どんな組み合わせであれ人々はハッピー(happy!)だ、と考えられる。が、そもそも無差別曲線の選択を誤るとどうなるか。

昨今、企業が成果主義に基づいて人を評価するようになると、どうしても「縁の下の力持ち」的な業務が軽んじられ、社員の間でパフォーマンス効果の高い業務が選好される傾向になりがちだ。例えば今年9月に金融商品取引法が施行されるのを受けて、内部統制、花盛り。「僕の専門は内部統制です」なんて人があちこちに出現し、その中にはついこの前まで「僕の専門は××です」だったあの人もいるような気がする。この群れの中からするするっと抜きん出て評価される人が現れて、ルーティーンワークに明け暮れていた彼に俺はこれでいいのだろうか、そんな思いが頭をぐるぐる巡ってしまったのだろう。有能で器用な彼はここで心機一転、内部統制へと方向転換をはかり、一応合格と評価される実績をあげることができそうである。が、ある一線はどうしても越えられず悶々とした日々をすごしてしまう。そんな彼の専門性が今一歩伸び悩むのをよそに、時は流れ「内部統制」はごくごく普通の管理業務に組み込まれ、数年後に日の光があたる分野は全く別物になっている。流行は流転するものである。

今、無差別曲線上に表現された“内部統制”は世間で注目を浴び、光り輝いて見える。が、その無差別曲線は誰かが勝手に決めて描いたものなのだ。この世の中の、多様な局面に無差別曲線はその名のとおり無数に存在している。彼はその中から自分が生きる無差別曲線を選択すればいいのに、それなのにわざわざ“内部統制”をバックにした無差別曲線に自分を当てはめ、「最適消費点を目指せ」という囁きに押されて、もがいている。私にはそう思えてならない。

本来、無差別(indifference)とは、選択肢の間に選好上の“差異が-ない in-difference”状態。つまり無差別曲線とは、わかりやすく言えば「どの組み合わせでも良い、どれも同じ点」の集合で、(図2)点Aと点Bは同じ満足度(効用)を表す。ビール党はビールと枝豆の2財を選んで無差別曲線を勝手に描く。ワイン党は白ワインとチーズの2財を選んで無差別曲線を勝手に描く。そしてビール党は自分で描いた無差別曲線上でビールと枝豆を自由に組み合わせて、今日の気分でビールを飲む。ビール党がワイン党の座標にのこのこ登場しても、立ち往生するばかりで、無差別曲線上のどの点にも乗れないだろう。ワイン党の座標上、ビール党はいったいどこでビールと同等の効用、満足度が得られるのだろう。

無差別曲線は自己完結型なのだ。誰かと比較できないし、そもそも自分の主観的満足度は誰かと比較しなくちゃならない代物でもあるまい。

世の中の一つ一つの事象にさまざまな無差別曲線があって、その中で自分に最適なものを選べるか、描けるか、それが問題なんじゃないかなあ、という気がしている。無差別曲線、ミクロ経済学だけには留まらずなかなかのもんですな、なんて一人で感心していると急に「やめっ」と大きな声がした。そうだ、これは経済学の模擬試験だった。罫線だけのB4用紙2枚を相手に2時間奮闘した結果は。

「あなたは一体、何をやっているのですか!」

また講師から殴り書きの赤字コメントをもらってしまいそうである。



【図1】

U1上のA、B、Eいずれも効用水準は同じ
Eは最適消費点
U1、U2、U3と効用水準は上昇する。



【図2】

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