何故インドのソフトウエア産業は強いのか

RSS

2005年10月24日

  • 児玉 卓

インド経済の特異さは、一つに膨大な貧困を抱える途上国でありながら、知識集約的産業が目覚しい成長を遂げている点にある。労働集約的製造業をキャッチアップの皮切りとしてきた東アジア諸国とは、経済の姿が大きく異なっているのである。インドの知識集約産業といえば、その代表格は言うまでもなくソフトウエア産業であるが、同部門の輸出は財・サービス輸出トータルの12.6%を占め、名目GDPの3%の規模に達している(2005年1-6月実績)。

インドのソフトウエア産業が急成長している背景として一般に挙げられるのは、高等教育の充実、コスト(人件費)パフォーマンスの高さ、米国との人的コネクションの強さなどである。また同産業がまさに「ソフト」である故に、インドの物流インフラの劣悪さやマーケット(欧米)との距離が殆ど制約要因とならないことも背景にあるのだろう。そして今や、ソフトなどのIT関連の技術者として成功することが、一種のインディアン・ドリームとして確立している。では、何がインドの若い人々を、この夢に駆り立てるのだろうか。眼前に示される成功例が、大きな刺激になっていることは疑い得ない。しかし、それだけではない。これは同国の社会的・制度的要素に関連した問題でもあろう。やや唐突に聞こえるかもしれないが、恐らくキーワードはかの悪名高き「カースト制度」である。

カースト制度とは、周知のように社会的には差別・抑圧のシステムである。一方、経済機能という観点から見れば、同制度は「貧しきを分かち合う」システムでもある。人々は世襲的な細分化された職業に結び付けられており、他の職分への侵食はタブーである。いわば“Winner takes all”を避け、すべての人がわずかとはいえ何らかの分配にあずかることを可能とするシステムである。ワークシェアリングの(極端な形での)先駆けであると共に、カースト制度はインド全土に、巨大な既得権を形成するもとともなっているということである。

清掃人の子は清掃人であり、その職場がレストランであれば、彼が料理や給仕をすることはない。逆も真なりであり、互いの職分を尊重することが、それぞれの生きる道でもある。しかし、技術進歩や経済発展は新たな職分を生み出し、伝統的な職分の一部をスクラップにする。ここで摩擦が生じると共に、カースト制度自体も変容する。ただし、既得権の存在が変化を抑制する圧力としても作用する。

そして自明なことだが、コンピュータープログラマーやシステムエンジニアという職種は、伝統的な職分制度の範疇を完全に超えている。従って、どのような既得権をも侵食することがない。同時に、世襲的な職分を受け継ぐことを潔しとしない人々が目指す、格好の職業ともなる。

加えて、議会制民主主義のもとで、しばしば政権交代が実現してきたインドにおいては、政治家も伝統的既得権に触れることには及び腰である。そのため、バンガロールを擁するカルナタカ州ばかりだけではなく、タミル・ナドゥ州、アンドラ・プラデシュ州、西ベンガル州など各州政府が、こぞってIT振興、関連企業の誘致に邁進することになる。IT産業は、どれほど発達しても既存の産業を淘汰する度合いが極めて小さい。政府としては、社会的摩擦を避けることが可能な、非常に都合の良い経済振興策なのである。ここにソフトウエアなどの新興産業と、一般の製造業や対人サービス産業との大きな差異がある。カースト制度に象徴される古い伝統を引きずりながら走るインド経済だからこそ、その桎梏(しっこく)から自由な新しい産業が伸びるということである。

従って、今後もしばらくは、こうした新しい産業が人的資源と海外のカネをひきつける成長の核でありつづける可能性が高い。一方で、伝統的な職分制度との摩擦を強いられる製造業等の成長は、相対的に活気に欠いた状態が続くであろう。

さて、カースト制度の行方であるが、職分のスクラップ・アンド・ビルドは時代の変遷と共に常に起こってきたことであり、コンピュータープログラマーは最先端ではあるが、新たに生まれた職分のごく一例でしかない。リキシャ(人力車)の運転手も、最先端の職業だった時代があるはずである。それにもかかわらず、カースト制度は数千年の歴史を刻んで今に至っている。その原動力は、恐らく貧困を分かち合う、ワークシェアリングとしての働きが、経済的なセイフティ・ネットの役割を果たしてきたからであろう。従って、インドが貧困撲滅に目に見える成果をあげたとき、カースト制度はその合理性を失い、決定的な溶解に向かうのではないか。

このコンテンツの著作権は、株式会社大和総研に帰属します。著作権法上、転載、翻案、翻訳、要約等は、大和総研の許諾が必要です。大和総研の許諾がない転載、翻案、翻訳、要約、および法令に従わない引用等は、違法行為です。著作権侵害等の行為には、法的手続きを行うこともあります。また、掲載されている執筆者の所属・肩書きは現時点のものとなります。