“セカチュー”の時代設定が80年代だったのは

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2005年06月23日

  • 斎藤 哲史

戦後間もない頃まで、物語で若い主人公が罹る不治の病といえば結核が主であった。だが、抗生物質ストレプトマイシンの発見によって結核が不治の病でなくなると、白血病がそれに取って代わることとなった(白血病は若者が罹るがんの中で最も頻度が高い)。昨年大ヒットした「世界の中心で、愛をさけぶ」(以下セカチュー)は、その代表例といってよいだろう

セカチューは、ドラマ、映画ともに80年代という設定であった。その最たる理由として考えられるのが、現在では白血病も骨髄移植や抗がん剤の進歩によって完治が期待できるようになったことであろう。勿論、治るといっても型によっては死亡率も高いし、治療過程における患者や家族の苦しみも並大抵のものではあるまい。しかし実際に俳優の渡辺謙やタレントの吉井怜のような治癒例が増えてくると、白血病=不治の病という設定に違和感が生じてくるのも確かで、事実白血病は現在では最も延命可能ながんの一つとなった。こうした事情が、セカチューの舞台を80年代にさせたのであろう。

それにしても、最近の医学の進歩には目を見張るものがある。白血病などがんの生存率の向上や、開腹の必要がない腹腔鏡下手術、日帰り可能な白内障の外来手術など例を挙げればきりがない。これらを望ましく思わない人は少ないであろう。

ただし、それには多額のカネが必要であることは言うまでもない。我が国では高齢化を医療費増加の主因とする主張が多いが、実はこうした技術進歩こそが、医療費を増やす最大の要因なのである。

医療の技術進歩が医療費を増加させるのは、健康・長寿に対する需要が無限であり、カネで買うことができる高度で新しい治療が増え続けているからだ(技術的に進んだ新商品が高価なのは、医療も一般の財・サービスも同じである)。例えば食事であれば、どんなに所得が増えても食べる量には限度があるし、美食ばかりでは飽きもこよう。先進国では、食に対して質・量ともに凡そ満たされているため、新たな欲求が生じにくい。ある意味、需要が飽和しているわけである。

だが、健康に対する欲求には限界がない。(権力をほしいままにした秦の始皇帝が、不老不死を求めたのは有名な話である)。結核で死ななくなったからそれで良しということには決してならず、次は白血病、その次はAIDSと絶えず次の病気を克服して欲しいと願っている。こうした想いが存在する限り、医療費増加は必然なのである。

現在我が国では、財政事情の悪化により医療費抑制が国是になっているといってよい。しかし我々は、医療費増加=技術進歩による効用(健康寿命の延長)を、十分に得ていることを忘れてはならない。医療費増加を否定することは、これ以上健康・長寿を求めないと言ってるに等しいのである。日本人は健康より借金返済(財政健全化)のほうが重要なのだろうか。

セカチューの最終回で、「2004年 今なら、血液難病の人を救えるかもしれない」というテロップが流された。実際、その通りだと思う。しかし、仮に20年前から今に至るまで医療費増加を否定し、医療費抑制に邁進し続けていたら、どうなっていただろうか。おそらく、セカチューの舞台を80年代にする必要はなかったに違いない。「 2004年、今でも血液難病の人を救えない」であろうから。

 

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