かばい手なき資本主義

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2004年08月02日

  • 原田 泰
名古屋場所8日目、横綱朝青龍と琴の若の対戦で、琴の若のかばい手が認められなかったことが話題になった。相手が死に体、すなわち体勢を立て直すことが不可能になっているとき、相手に体重をかけて倒れるのではなくて、優勢に立っている者が、自ら手を着くことで相手の怪我をさける工夫だ。先に手をついても、当然、手を着いた力士の勝ちだ。これは、相手を慮る相撲の美風とされてきたものだ。ビデオを見れば、朝青龍が死に体になっているのは明らかで、これでかばい手が認められなかったら、誰もかばい手をしなくなってしまうだろう。それは相撲という競技の性質を変えてしまうような判断だ。

日本の資本主義も、かばい手を持つ資本主義だった。従業員にとっては、終身雇用、年功序列、経営者にとっては株式持ち合いで、関係者は保護されていた。しかし、日本資本主義の美風も崩れ、日本的特色と言われていたことが変わりつつある。グローバルリズムの力が押しよせてきた。終身雇用は解雇自由に、年功序列は成果主義と実力主義に変わりつつある。株式持合い比率も低下し、外国人株主の比率が高まっている。日本の資本主義も、かばい手なき資本主義になりつつある。

朝青龍の取っていたモンゴル相撲ではかばい手はない。しかし、モンゴル相撲は草の上でとる。日本の相撲では突き固めた土の上でとる。土俵から落ちるという危険もある。かばい手をなくすなら土俵を芝生や弾力のあるマットに変えるべきだろう。日本資本主義も、かばい手をなくすなら、それなりの変化が必要ということになるのではないか。

私は、相撲のかばい手は間違いなく合理的なものだと思うが、日本資本主義のかばい手が問題なく合理的なものだとは思っていない。それではやっていけないから、それではうまくいかないから、かばい手資本主義が変化しているのだと思う。しかし、それにしても、これまでのかばい手に代わる合理的なかばい手は必要だろう。新しいかばい手は、セイフティネットの拡充、敗者復活のチャンスの拡大、会社以外での労働技能の教育、転職市場の整備などということになるのだろうか。

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