もう一つのワクチン
2021年06月28日
『ジャーナリストは、真実でないと自ら心得ている事柄を語る。しかも、それをしゃべり続けているうちに、真実になるかもしれないと願っている』
アーノルド・ベネット
地方都市の閑静な住宅街で起こった有毒ガス事件。その第一通報者がマスコミによって犯人に仕立てあげられてしまう。メディアスクラムの怖さ、そして愚かさを描いた映画「日本の黒い夏-冤罪-」の制作は、高橋尚子の金メダルに沸いたシドニーオリンピックの年、2000年のことである。
1994年の松本サリン事件を題材とした熊井啓監督の作品だが、見込み捜査をもとに報道が際限なく過熱していく様子はホラーですらある。面目を守りたい警察と正義を求める大衆。演出上の誇張が一部あるとはいえ、エスカレートする報道合戦は知る権利や事実とは何かを改めて考えさせられる。描かれる教訓は今も色あせることはない。
そもそも、物的証拠が何一つ存在しないなか、報道はなぜ誤った方向に突き進むのか。
20年以上も前の映画だが、改めて観ると昨年来私たちを悩ましているウイルス感染をつい思い浮かべてしまう。
生体で自己増殖し、飛沫や接触を通じて感染、その過程で変異していく新型コロナのようなウイルス感染と確かに似ている。犯罪報道の犯罪が形成される過程では、報道機関を宿主として不適切な憶測が望ましくない変異を繰り返しながら、“空気”を介して感染、異常ともいえるスピードで伝播し「真実」として固定化する。そっくりだ。
情報を商品として売るメディアは、スクープと誤報の危うい関係を承知のうえで、し烈な競争を繰り広げている。そして、誰もが発信者となる昨今、そこにSNSによる拡散が加わる。手洗いをするように、そしてマスクを身につけるように、日ごろからメディアリテラシーを高め、何より胡散臭い情報を遠ざける努力が欠かせない。当然だ。
ところで「ワクチン」はないのだろうか。
病原体から作られた抗原の投与により抗体を体内に作るとの観点からは、過去の誤報・虚報や偏向報道に数多く触れることが何よりのワクチンであると、少々強引ながら筆者はそう思うのだ。
思い立って調べてみると、とにかく多い。太平洋戦争下の新聞報道は言うに及ばず、テレビ報道のヤラセと捏造、本来なら大メディアのチェック機能を果たすはずの週刊誌の暴走と開き直り。ネット記事にいたっては「玉石混交」ではない。多くは石ばかりだ。
新聞の縮刷版をひも解き、変色した週刊誌のバックナンバーのページをめくり、テレビの過去番組を追っていくと、その構造的な病理がわかってくる。
ただ「後出しじゃんけん」のごとく、当時のジャーナリストを責め、その過ちを一方的に断罪する気持ちにはなれない。「腰を落ち着けた調査報道こそが大事。時間差特ダネを追いかけることなど恥ずべき行為だ」とカッコよく言い切る勇気もない。
溺れることなく情報の濁流を泳ぎ切る。そのためには自らアーカイブの森に奥深く分け入り、報道における「蹉跌の系譜」に触れ続けることで自らに抗体を作ることが欠かせないのであろう。その際、べき論やIF論に凝り固まることのないように心がけたいものだ。
オンデマンドでの映画鑑賞の傍ら、複数のテレビモニターで地上波のワイドショーをチェックしつつ、気がついたらこんなことを考えていた。職業病のようなものである。
参考書籍を以下に挙げておく。興味をもった方は是非ひも解いてみてほしい。
参考書籍
浅野健一「犯罪報道の犯罪」(講談社文庫、1987年)
後藤文康「誤報—新聞報道の死角」(岩波新書、1996年)
浅野健一「新版 犯罪報道の犯罪」(新風舎文庫、2004年)
前坂俊之「太平洋戦争と新聞」(講談社学術文庫、2007年)
藤田博司「ジャーナリズムの規範と倫理」(新聞通信調査会、2014年)
ミチコ・カクタニ「真実の終わり」(集英社、2019年)
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- 執筆者紹介
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コンサルティング企画部
主席コンサルタント 林 正浩
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