「偶然」か? 「必然」か? 「想定外」に逃げ込むな。

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2021年03月25日

  • 中沢 則夫

「この世の中は、必然で構成されているのか? 偶然が支配するのか? 君はどう考える?」
ある知人と食事をした時、唐突に聞かれた。知人と言っても、その筋では強面で知られる超大物の大先輩である。じろりと覗き込まれた私は、30秒ほど黙り込み、頭を抱え、脳みその隅々まで、あらん限りの知恵と経験を引っ張り出して吟味し、口を開いた。「●●●なので、〇〇〇です。」 かなり深い回答をしたが、禅問答ゆえ、あえてここでは披露しない。

「偶然」から「セレンディピティ(serendipity)」という言葉が連想される。何の気なしに偶然に遭遇した物事を契機として大きな価値を得る現象だ。<旧友からの突然の連絡に窮状を救われた>、<ペニシリンの発見、ダイナマイトの発明など多くの科学技術上の功績>、<「マジックテープ」や「ポスト・イット」の商品化>など多くの実例に接する。いずれも希望をもたらす明るいイメージだ。
ただ、成功した方々に共通しているのは、平素からの大変な努力が基礎にあることである。単に運に恵まれただけでなく、幸運を手にするまでの忍耐力、到来した幸運の価値に気づく感性、幸運を行動に結び付ける構想力、そして技量の鍛錬を続ける勤勉さ、結果に導くまでの緻密な詰めを怠らぬ実行力。動きが激しく、大量の情報が氾濫する現代において、到来する幸運の数も増大しているはずで、それを見極める目利き力の重要性も高まっている。

「必然」の本質は、「予見可能性」のある状態である。自然法則が典型だ。<水は高きから低きに流れる>、<太陽は東から昇り西に沈む>、<速度は距離を時間で割って得られる>。社会的な現象に目を向けると、<法制度>、<確立した慣行>、<年中行事>、<世の中一般に通用する常識>、<道理と言われるもの>など。さらに広げると、<声の大きい者の意見>、<同調圧力>といった怪しげなものも、「必然」の顔をして紛れ込んでくる。
「偶然」事象に対処するため、確率論的に事象を把握するアプローチもあるが、多くは安易に正規分布(ベル型分布)のモデルを当てはめて予測しているのみ。これでは「偶然」に立ち向かっているとは言えず、「必然」の世界を出ていないとみるべきだ。世の中の事象なかんずく社会的現象の多くは、あらかじめ確率分布の形状が分かっていないからである。

「必然」という言葉を軸にして、「偶然」を裏返したところに鎮座しているのが「想定外」。現在の社会経済環境が予測困難な状況に直面していること表す「VUCA」という便利な言葉がある。変動(Volatility)、不確実(Uncertainty)、複雑(Complexity)、曖昧(Ambiguity)の頭文字をとったもの。社会のヒエラルキーや旧来的秩序が崩れ、高度な技術が普及してきた90年代以降、VUCAの進行が顕著となった。
全人類共通の敵としてにわかに出現した新型コロナウイルス感染症は、さらに強烈なVUCAである。「必然」モデルは通用しないが、どうしても「こうすれば、こうなる(だろう)」という一知半解の「必然」的発想で、感染回避策や、経済活性化策を考案しようとするのが人間の性であり、民主主義的な社会における行政の限界である。満額回答が得られるはずはないが、無策であるよりは遥かに有益である。それを「無謬でない」と言って批判するのはお門違いというべきだ。
一方、「無謬」と「必然」に固執するあまり、「考えていない状況」どころか、ひょっとしたら「気づいているが、考えたくない状況」、「対応策が取れないので、考えないことにする」ものまで含めて、「想定外」という言葉を免罪符として使うようになったら絶望的だ。さらに、習い性となった「必然」的思考から逆算して、「偶然」事象を色眼鏡付きでみるようになったら、真実を隠蔽し、事実を歪曲する誘惑がその先に待っている。
「必然」ルールを緻密に追求するだけではなく、「偶然」を超えた「想定外」に立ち向かう耐性・心構えを身に着けることは、セレンディピティに近づくことと同義である。シンクタンクもその役割の一端を担うべきものと自戒をこめて、そう確信する。

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