『さおだけ屋は、なぜ潰れないのか』で解決するものは?

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2006年12月14日

  • 中島 節子
その姿は見えぬが「さおやー、さーおだけー」と連呼しながらゆっくりと通り過ぎる声。さおだけ屋だ。たいてい、さおだけ屋の声は呼び止められて留まることがなく、流れていくだけである。今日の売り上げは如何ほどか。高いガソリンを使って朝から車を走らせて1本も売れなかったら、どうなるのだろう。気になりながらも自宅のさおだけは壊れることもないから、私もさおだけ屋を喜ばせることはできない。とはいえ、さおだけ屋はときどき我が家の近辺にやってくる。ということは潰れていないのだ。不思議だ。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』がベストセラーになったのも、私のように不思議が膨らんだ者がその理由を知りたいと、つまりさおだけ屋商法には何か裏ワザがあって、実はあの商売は儲かっている、その秘密が解き明かされるぞ、と期待を胸にとにかく読んだ、ということではないだろうか。

で、その結論はこうだ。「さおだけ屋」という単体の商売では儲かっていない、という。本の説明をかいつまむと、利益を出すには、単価を上げるか費用を削減するか、の2点に集約される。さおだけ屋を呼び止めて実際に買ってみると、2本で1000円なんて言っていても、その1000円では終わらない。さおだけ販売に便乗して、物干しの修理までやってしまうケースもある、そうな。つまり実際の単価は高い。そしてさおだけ屋の正体は金物屋で「さおだけ屋」用に“さお”だけを仕入れているのではなく、車の走行も配達のついでだったりするからガソリン代など余分な費用の必要なし、というのだ。筆者の言う、単価は高く、費用はなるべく低くの理にかなっており、“潰れない”というわけだ。本の内容は具体例を誇張した会計学入門書の域を出ず、私が期待していた「さおだけ屋」マジックは残念ながら存在しなかった。

とはいえ、さおたけ屋のように車で巡回するスタイルの商売は他にもまだまだ生きている。高層マンションが立ち並ぶような都心ではさすがに消え去ったようだが、私鉄沿線の住宅街には忘れたころにやってくる。包丁研ぎ屋、産地直送牛乳屋、網戸の据付屋などなど。冬場になると軽トラックに灯油タンクを積んだ業者が日替わりで回ってくるのだから、帳尻あわせがやっとのようなイメージとはうらはらに、なかなかか捨てがたい商売形態のようだ。そして、客となる私もこの商売形態が好きである。

週末の夕刻近くになると私は、お豆腐屋さんのラッパに耳を澄ましている。その姿はミニバンとなり、自転車に箱を乗せていたおじさんではないが、なんだかとても懐かしい。

そのラッパの音を聞いて私は思わず声をかけたのだった。威勢のいい若いお兄さんだった。材料を吟味し、にがりを多く使った昔ながらの豆腐を作っていこうとがんばっている。豆腐には大豆そのものの甘さと香りが生きていた。

ただ私が言葉を交わしながら買い物をしている間、他には誰も顔を出さない。お豆腐屋さんを避けているような気配さえ感じてしまうこともある。無言のコンビニやスーパーがいいのだろうか。儲からないことにはお豆腐屋さんはもうこの辺を回ってこないだろう。弱小ながら良いものを作っていこう、という意気込みが消されてしまうのはなんとも惜しい。人がいない住宅街でお豆腐屋さんがラッパを吹いてぽつんと立っている姿は私が一番想像したくない光景だ。なんとかしてお客さんを呼び込めないだろうか。それであの「さおだけ屋」の本を読んだのが、商売の極意を伝授されることもなく終わってしまった。豆腐屋に牛乳屋の宅配サービスに似た形態を持ち込めないだろうか、など思案しているがたわいないアイディアがぐるぐる回るばかりで、私の豆腐屋応援計画は一向にはかどらない。

そうこうして4、5ヶ月たったある日、向かえのおばあさんがお孫さんをつれて車へ近寄ってきた。小さな女の子が手にお金を握り締めている。私から思わず声が出た。

まるで自分の店に初めてお客さんが来てくれたような喜びようだ。毎週毎週、豆腐を買い続けられれば「また、あのお豆腐屋さんがきている」という信号が近所に流れてお客さんの輪が広がっていくんだ。こんな小さな1シーンで、私は根拠のない自信をもつこととなり、『豆腐屋はなぜ儲かるのか』を書くぞ、と意気込んでいる。

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