変わらないことは負けること ~パンデミック収束で日本売りが始まる?~

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2021年01月08日

  • 児玉 卓

英国のある経済誌が昨年12月、世界的なインフレ再燃に警告を発する記事を掲載していた。その要諦は(日本をはじめとする長年の反証の積み重ねにもかかわらず)、とうとう物価が「貨幣的現象」に回帰するというものだ。各国中銀によるベースマネーの大盤振る舞いは目新しいことではないが、現下のパンデミックにあっては、銀行融資も急増し、さらに支出の手控えを余儀なくされてきた家計の貯蓄が膨らんでいる。こうした種火がパンデミックの収束、あるいはワクチンの供給体制の整備によって一気に燃え上がる(かもしれない)というわけだ。

マネーの量がインフレ率を決めるというロジックは、いささかオオカミ少年の言い分に聞こえなくもないし、あるいは米国の某エコノミストがブーム下の楽観論を皮肉った“This Time Is Different(今度こそは)”という言葉を思い起こさせもする。とはいえ、インフレ再来の可能性がないとは確かに言い切れない。しかも、主要先進国でそのリスクが最も高いのは日本なのではあるまいか。そういう懸念をこのところ抱き始めている。ただし、ここでの要諦はマネーではない。生産性格差である。

振り返れば、リーマン・ショック後の2009年、その震源地でも何でもなかった日本の成長率は他の主要先進国よりも激しく落ち込んだ。しかし、それ以上に問題とすべきは、その後の回復力において日本が他国に劣後したことではないか。これからのウィズコロナ、ポストコロナを展望するに当たって覚える危惧もここにある。日本の問題はショックに脆弱なことではなく、むしろショックに鈍感なことなのではないか、という危惧である。

例えば師走の東京駅。旅行客の姿はまばらであったが、オフィスに急ぐ勤め人の数は概ね平時のそれであった。いうまでもなく欧米諸国に比して日本の新型コロナウイルスの感染者数が少ないのは喜ぶべきことだ。だからこそ平時のような出勤が可能だという側面もある。しかし恐らく、欧米をはじめとした多くのグローバル企業は、コロナショックを奇貨として、働き方の抜本的な見直しとそれを通じた生産性の引き上げに邁進しているはずである。一方、東京駅の人出の多さの少なくとも一部は、日本企業の変わるまい、変えるまいとする姿勢、ないしは変わりたくても変われない粘着的な企業体質の結果でありはしないだろうか。

昨年来、テレワークや在宅勤務の功罪が様々に議論されてきた。そこでは働き方の変化と投資を組み合わせていかに生産性を引き上げていくかという動態的議論も無論ありはしたが、同時に、従前の働き方や企業内インフラを前提として、そこにテレワークをどう組み込むか等、比較的短期的な視座に立った議論も少なくなかったように思われる。コロナショックが多くの日本企業にとって奇貨ではなく、やり過ごすべき危機にすぎないとすれば、こうした彼我の差が、再度、来るべき回復期の成長力と生産性上昇率の格差として顕在化してしまうことを懸念せざるを得ないであろう。

生産性の相対劣位は単位労働コストの上昇圧力を生み、国の競争力を減退させて為替レートを引き下げる。幸か不幸か、これまでのところ、こうしたメカニズムは働いてこなかったが、為替レートが相対的に高く維持されることで、競争力の低下に拍車がかかってきたとも考えられる。しかし、このような為替レートの上昇(あるいは高止まり)と競争力の減退、更にはデフレからなる三つ巴のスパイラルを何かが止めるとすれば、ダメ押し的な生産性格差の拡大に起因した為替レートの下落は、確かにその一つの候補ではあろう。その場合、グローバルインフレではなく、日本がひとりローカルなインフレに見舞われる可能性が浮上してくる。

もっとも、インフレになるか、競争力の減退に拍車がかかるかは些末な結果論にすぎない。当たり前だが重要なのは生産性の相対劣位を回避し、そのいずれをも起こさせないことだ。そしてそれができるのは企業の意思以外にはない。

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