「可能性がある」とは、確率でいうと何%程度か

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2020年06月01日

  • 田中 大介

まだ新型コロナウイルスが流行する以前のことだが、高校時代の友人らと食事をしていると、表題について議論となった。文系理系を問わず、この「可能性がある」という言葉を使ったことのある人は多いだろうが、この問いかけに対してもっともらしい回答を用意できる人は少ないのではないだろうか。

その場は、筆者に加えて、文系1人、理系1人が同席していたが、見事に文理で回答が分かれた。文系の友人は60~70%、理系の友人と筆者(理系)は20~30%以下とそれぞれ答えた。同世代が使う言葉において、これほど数字(認識)に乖離が生じることは珍しいのではないだろうか。

文系出身の友人曰く、「可能性がある」とは、事象がそれなりの確率で生じる印象を受けるとのことであった。「ある」という言葉のイメージに加え、言葉の前に事象が明示されているため、その確率は低くないという考えのようだ。

一方、理系出身の友人曰く、「可能性がある」とは、確率がゼロではないことを示すとのこと。いわゆる、“One of them”に過ぎないことから、確率の程度はわからないものの、事象としては発生し得るという主張であった。

「可能性がある」というありふれた言葉ではあるが、このように単に文理が異なるというだけで認識齟齬が生じてしまうことがある。この問題を知ってか知らずか、学際的研究が行われる環境分野では前々からこれを是正しようとする動きがある。その代表例がIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change:気候変動に関する政府間パネル)の評価報告書である。

図表にある通り、IPCCの評価報告書では、文章表現に対する理解の仕方を丁寧に説明している。事象の発生確率や報告書の執筆者の大勢などが理解できるようになっており、その分野の研究者でなくても読解できる工夫が為されている(図表)。

昨今、話題となっている気候変動問題だが、関連する主張の根拠として最も頻繁に用いられているのがIPCCの評価報告書である。ゆえに、必ずしも知見があるとは言えない人が気候変動問題について学ぼうとして、この報告書を読むこともあるだろう。しかし、ここにある工夫を認識せず、可能性や確信度の高低といった尺度を無視して読み解いていては、それこそ執筆者と読者で認識齟齬が生じることになる。正しい理解があってこその議論であることは当然であり、その当然の積み重ねが気候変動問題への取り組みにつながることを期待したい。

なお、表題は可能性の高低ではなく、その有無に対する問いかけであることから、答えは0%以外であれば何%でもよい。

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