経営困難に陥ったロシアの大手観光会社に見るW杯の光と影

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2018年07月12日

  • シニアエコノミスト 菅野 沙織

サッカーワールドカップ開催中にサッカー以外でロシアメディアの一面を賑わせたニュースがある。一時は年間95万人のロシア人観光客をヨーロッパツアーに送っていたロシア観光業界の老舗で大手のナタリーツアー社(ソ連崩壊後の1992年に設立)が夏休みシーズンの最中に経営困難に陥ったのである。人気の高いスペイン、イタリア、トルコ方面へのチャーター便をすべてキャンセルした数日後、今度は代金支払い済みのツアーを含む夏期のすべてのツアーをキャンセルすると発表した。実はこれまでにも中堅観光企業の経営困難の報道はあるにはあったが、ロシア人なら誰でも知っているナタリーツアー社の事実上の破綻は社会にかなりのショックを与えた。皮肉なことに、同社が経営困難に陥った背景には、ロシアで開催中のサッカーワールドカップの成功がある。

ロシアで初めて開催されたサッカーワールドカップは当初の期待以上に成功したと言っても過言ではない。新しく建設された会場やセキュリティー等、今大会を取り巻く様々なインフラの水準の高さはロシアの技術力ばかりでなく、経済力と財政力が世界を驚かせ、ロシア人のプライドを高めるものとなった。参加チームの中で世界ランキング最下位のロシア代表チームはファンの期待をはるかに超える健闘を見せた。

外国から多くのサッカーファンがロシアを訪れており、ロシア中銀によれば、今回のワールドカップはGDP成長率を0.1%~0.2%ポイント押し上げる効果があると推定されていている。17年の経済成長率が1.5%であったことを考えると、この数字は決して小さくはない。さらに大勢のボランティアがこの大会の成功を裏で支えており、海外チームやファンが快適に過ごせるよう全力を挙げた結果、外国人のロシア人に対する印象もかなり改善したとされる。しかし、ロシアの観光業界の一部はこの成功を素直に喜べなかったのである。

実は、ルーブル安が急速に進んだ14年以降、海外で休暇を取るロシア人旅行者の数が減っている。16年~17年にルーブル相場は持ち直したが、海外旅行を刺激するにはいたらなかった。なお、欧米の対ロシア制裁により多くのビジネスマンや政府関係者は「ブラック・リスト」に入り、EUや米国のビザを入手できず、入国できない状態が続いている。こうした、ロシア人に「友好的でない西側諸国」の雰囲気も海外で休暇を過ごそうというロシア人を遠ざけ、海外旅行者数の減少につながった。実際、ロミル社の世論調査結果によれば、14年にはロシア人の37%が海外で長期休暇(夏休み中心)を過ごしたのに対して、16年には12%、そして18年には9%まで減少する。海外に出かける旅行者の激減の主因がルーブル安であるのは間違いなさそうだが、18年の減少については、多くのロシア人にとって人生で一度のイベントとなるであろう母国で開催されるワールドカップを国内で観戦したいという気持ちがさらにこの現象に拍車をかけた。渦中のナタリーツアーの社長によれば、多くのロシア人が、快進撃を見せるロシア代表チームの試合を国内にいて楽しみたいという気持ちを持ち、このことが同社の業績悪化につながった一因であると言う。

ルーブル安とサッカーワールドカップ開催によって崖っぷちに追い込まれたロシアの観光業界にとっては、右肩上がりの原油価格が徐々にルーブル高をもたらし、ロシア人にとって海外旅行がより手軽なものになることへの期待もあるものの、国内旅行の人気向上に活路を求めることも一つの戦略であるかもしれない。

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