日本復興は人づくりの見直しから

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2012年01月04日

  • 川村 雄介
企業であれ、国であれ、基本は人材育成である。古今東西、これは真理。異論を差し挟む余地はないと思う。日本が19世紀末の遅い開国から驚異的なスピードで先進国にキャッチアップできたのも、江戸時代に藩校エリート教育のみならず、広く庶民の間で「読み書きそろばん」の習いが普及し、開国、殖産興業を担う人材インフラの基盤が作られていたからだ。太平洋戦争後の高度成長が、戦前の教育システムに鍛えられた人々の手で実現したことはいうまでもない。

今、「失われた20年」なる自虐的なうら寂しい時期を過ごしながら、日本の復活・再生のためには、教育制度の抜本的な見直しが不可欠だ、と痛感している。とくに高等教育、なかでも危機的な状態にある大学教育を早急かつ根っこから改革をしないと大変なことになる。内容面にも方法論にも課題山積だが、まずはおカネの問題がある。

日本学生支援機構が運営する奨学金制度について見てみよう。周知の少子化で18歳人口は平成年間に入ってから4割近くも減少して120万人ほどまで落ち込んだ。しかし、大学進学率の上昇もあり、この10年間の大学入学者数は60万人強で横ばいである。他方で、奨学金受給率は平成11年度以降急上昇して、10%から36%にまで跳ね上がっている。その結果、同機構だけでも奨学金の受給者数は11年度の65万人が23年度には133万人に、奨学金貸与事業規模は3800億円から1兆円を超えるレベルに著増した。こうなると奨学金を返済しない人も増えてくる。同機構は財政投融資機関であり、奨学金の未返済は国の財政にとっても頭が痛い問題だ。

では、大学教育の家計負担はどのくらいなのか。平均給与額が10年間で15%も減少するなか、大学生の保護者は年間平均145万円の負担をしている。これに学生本人のアルバイト収入36万円と奨学金34万円、〆て215万円が年間の「大学生維持費」である。保護者にとって、収入が減る中での145万円、月額12万円はいかにもきつい。勤労者の年収に対する授業料割合は、国立で9%強、私立では14%を越えている。

1972年に国立大学の授業料を一気に三倍に値上げしてからの40年間、国立大学授業料は50倍近くに垂直上昇した。学食メニューの値上がりは当時から5、6倍といったところであるから、国立の授業料は世の中の常識の10倍のペースで値上がりしたことになる。国の財政状態が厳冬期にあることは十分承知しているが、教育コストの負担をここまで受益者に回して良いのだろうか。受益者は学生たち本人だけではなく、社会全体なのである。ただし、国や公的な資金が面倒を見るからには、それだけの意味のあるもの、要するに学業に真剣に取り組み、卒業後、広い意味で社会に貢献してくれる人材の養成費用でなければならない。義務教育が遍く国民皆教育であって原則として平均的正義を理念とするのに対して、大学教育は良い意味で配分的正義を基本に考えるべきだろう。つまり、勉強せざる者やその意欲なき者に、公金は使うべきではない。反対に意欲と能力と努力に対しては十分に支援すべきだと思う。限られた公費は、ここでも長期的な視点から有効活用される必要がある。

他方、教育の内容面に関連しては、大学生の学力低下が嘆かれて久しい。大学教育は、前世紀末あたりからいくつもの改革が実施されている。大学院定員の大増員、教養教育の見直し、専門職大学院の新設、国立大学の法人化等々、どれも大きなものばかりである。これらの目指す方向は大きく二つだ。高度専門教育の充実と大学教育の裾野拡大である。専門化と大衆化の二兎を追っているといってもよい。いずれの試みも志が高く、理念としては大変結構。現場の大学教員らも必死に努力している。

では成果は出ているのか。残念ながら今日までのところ高い評価を与えるわけにはいくまい。大学院生の増加はオーバードクター問題や院生の質的低下を招き、専門大学院の乱立はその運営問題を引き起こし、教養教育の充実は大学の高等学校化、レベルダウンを進めてしまっている。学部生と院生をともに指導してきた経験では、前者の優績者の方が後者の水準を上回るケースも少なくなかった。また、大学の多くが、レミディアル教育と称する高校学習のやり直し(これをやらないと大学のカリキュラムについていけない)を実施したり、少人数の担任制を敷いたり、泊り込みの新入生オリエンテーションで「友達の作り方」の指導を行ったりするのである。学生の学外でのおよそ大学とは無関係の素行不良にも、学長以下でお詫びの記者会見だ。もはや大学の学生指導は中学、高校と大差がない。半面、著名なブランド大学で、到底教育者の名に値しない教員が我儘放題を貫いて、真剣な学生を心の病に追い込んでいるようなケースを散見して驚くこともあった。

こうみてくると、関係者の奔走に反比例するように日本の大学教育は混迷の度を深めているようだ。その主因は前述のように専門化と大衆化という相矛盾する課題を同時平行で追求していることや、基礎学力が伴わない、あるいは大学進学よりも実業・実務スキルなどに適性がある若者を、何が何でも大学全入に持っていこうという風潮にあるのかもしれない。その果てに若者を待ち受けているのが就職難である。ちなみに、現在の学生は3年生に進学するや否や就職活動を始めざるを得ない。夏にはインターンシップ、秋からはエントリシートなのだ。就職活動が終わるのは4年生の夏前になる。残り半年弱は卒論作成の帳尻合わせ。現在の4年制大学の正味学生生活は2年間ほどしかない。学力をつけろ、と言う方が無茶なのかもしれない。保護者も2年間の教育に4年分の授業料を払わされている気分になるのではないか。

いずれにしても日本の大学教育は、もはやその本来的機能が持続不可能な段階に入っている。一日も早い出直し的改革が不可欠だと思う。大学関係者や教育行政関係者が随分と工夫し苦労してきたにもかかわらず、従来の改革では望ましい効能が出ていないのはなぜだろうか。多くの理由の中で2つだけ指摘しておこう。

第一は、いまだに「大学さえ出れば豊かな人生が送れる」あるいは「大学を出ていないと偉くなれない」という人々の刷り込まれた思い込みだろう。これらはむやみに否定できる感覚ではないし、それ自体が一概に誤りとはいえまい。しかし、この思い込みによって若者の可塑性を阻害し、より適性のある人生を実り豊かに過ごす道を閉ざしてしまっていることがあまりにも多いのではないか。他方でこうした感覚は、本来、大学教育に向いていない、あるいはその基礎学力を身に付けていない者たちを受け入れるために全体の水準を下げてしまっていることも見逃せまい。大人たちが改めて「大学教育とは」を問い直す必要があると思う。

第二は制度面だ。現在の6・3・3・4制は戦後70年も変わっていない。社会がこれだけ複雑化、高度化するとともに平均寿命が大きく伸びている今日、いまだに真空管や赤電話時代、人生50年時代の教育年限を墨守するのはおかしい。昨今の日本は、産めよ増やせよで労働集約社会に適応する時代ではなく、少子化で国民一人ひとりがより高い付加価値を身に付けるべき段階に入っている。高校までを義務教育化して12年間、大学は原則として6年間、大卒年齢は24歳を原則とするなど、教育年限の長期化が有効だと思う。同時に、12年間の新義務教育を終了したら、進学先としてスキルや実業教育を行うプロフェッショナル・スクールにもっと公費を充当して充実させ、大学は真に「勉強が嫌いではない」若者、基礎学力を収めている若者に限る、ある意味での狭き門にしたらどうか。飛び級もあれば学力不振の退学もあってよい。同時に、社会人になってからもう一度きちんと高度専門分野を学びたい人たちへの道も拡充すべきである。また、この際、編入学試験が一種の正規入試迂回の手段になっているような変則入試は中止すべきだろう。

以上は、短くはないサラリーマン生活を送った後、10年ほどの大学教育現場に身をおき、現在再び実業社会に戻ってきて実感している気持ちである。もちろん、具体的な方法は多々あろう。私見はその議論のきっかけにでもなれば光栄である。ただし、再度強調したい。教育制度面の根こそぎ改革は待ったなしである。日本の復興、再生は人づくりが成ったときに成就するのだと思う。

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