歴史から学ぶもの

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2011年04月21日

  • 川村 雄介
今は昔。残暑の陽が眩しい相模湾沿いに建つ家では、家族一同がお昼の食卓を囲んでいた。6歳の長女は大好物の茶碗蒸しの香りに上機嫌だ。

「いただきまーす」少女がお箸に手を伸ばそうとしたその刹那、卓上の茶碗蒸しが垂直に跳ね上がった。

家屋全体が大きく不気味に軋み、皿や茶碗は粉と砕け散る。玄関口の重い柱時計も軽々と横転した。凍りついた少女を若衆が抱き上げ、開け放った縁側から庭に飛び出す。が、倒壊していく石灯籠を目の当たりにして彼の足ははたと止まった。

「裏木戸から浜に逃げろ」大声で叫ぶ父親の指示で、若衆は一心に海岸を目指した。足元は大きく振動しながら地割れを生じ、深い淵から地底の咆哮が轟く。目をつむって海岸の砂山に走り着いた若衆は、漸く一息ついて少女を降ろした。

周囲には家々から無我夢中で逃れ来た人々が蝟集している。中空に何羽ものカラスが群れ飛ぶ様子が、皆に言い知れぬ不安感を掻き立てていた。

少女があどけなく叫んだ。「海がどっかいっちゃった」

人々の目線の先に見慣れた湘南の海はなく、底地が遥か沖まで異形の姿をさらけ出していたのである。

数瞬の沈黙の後、壮年の網元が絞り出すような声音を発した。「山に逃げろっ。津波が来るぞ」

1923年9月1日。倒壊した少女の家に横たわる柱時計は11時58分を指していた。相模湾を震源とする大地震は関東一円に大被害を与え、罹災者は約340万人、うち死者・行方不明者は10万人を超えた。

この少女とは私の母である。幼い頃から、私はこの話を聞いて育てられた。それだけに、今春、東北地方を襲った惨劇には、文字どおり声を失った。残酷なことに、「今は昔」ではなかった。犠牲者の方々、被災者の方々に、衷心よりお悔やみとお見舞いを申し上げたい。同時に、黙々としかし決然と復興に立ち向かう人々の勇気と強さに感服している。

余震に撹乱され、見えない脅威に不安が拭えない日々だが、国力の限りの復旧活動が続けられる中、次の段階の復興プランを具体的に策定する時期にも入っている。その際には、過去の歴史と経験を精査し、将来への明るい希望を描ける計画、逆境をチャンスと捉えて従前では進めにくかった思い切った施策を講ずることが大切だと思う。

関東大震災や阪神淡路大震災の教訓は多々ある。まず、生活の安全とリスク管理の面では、自然界は人間の「想定外」の事象を起こす、という現実を虚心に受け入れることである。点と点の対応やその場その場の対症療法、甘めの前提は自然の猛威に通用しないことを肝に銘じなければなるまい。今回の大災害からの復興計画はこうした認識に立った、いわば出直し的再生を実現するものであるべきだ。関東大震災後の復興活動に伴う都市の近代化は、被災地の東京、横浜だけではなく、釧路から鹿児島まで全国115都市で実施された。今回にあてはめれば、たとえば日本全土の観点からの、安全性とエコ重視の都市や地域、街づくりの一体的推進などが検討対象になるべきではないか。

また、悩ましいのは復興計画の策定が政争の具とされかねない点である。関東大震災後には、復興計画を巡って政治的に激しい対立が見られた。首相の諮問機関である帝都復興審議会は、政党を介した利害関係者の反対で大いに紛糾した。旧藩閥官僚派と政党間の錯綜した権力闘争が、復興問題に藉口して蠢動したともいわれている。高利の外債発行は「国辱公債」と感情的に非難され、増減税論議も政党間闘争と化してしまった。

政治は国民のためにある、という不朽の原則を噛み締めたいものである。そして国家の指導者は、百家諸説の中から「選択し実行する」ことにおいてこそ存在意義があることを想起しておきたい。

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