「子ども手当」の意義とは

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2009年08月27日

  • 齋藤 哲史
少子化対策の1つに子ども手当(現金給付)があるが、「効果が限定的」、「所得制限なしは金持ち優遇」といった反対もあり、世間の評判はあまりよろしくないようだ。

確かに、小額だと出産・育児のインセンティブとしては小さいだろう。一方、多額だと子どもは増えるかもしれないが、出産・育児が功利的な行為になりかねず、子どもの成長に悪影響が及ぶなどデメリットの方が大きいだろう。それよりは、待機児解消のための保育所や子どもが病気になった時に預かってくれる施設の整備、教育費の無料化など非現金給付の方がより効果的だと考えられる。

こう書くと、子ども手当は効果がないのかと思われるかもしれないが、そうではない。子ども手当には、子育て支援ではなく、一種の社会貢献活動としての意味があるのだ。

そもそも論として、子どもがいないと将来の社会が成り立たないのは自明のことである。実際、日本の社会保障制度は、一定数の子どもが生まれてくることを前提に設計されているため、子どもが減り続けると制度は崩壊してしまう。したがって社会を維持していくためには、国民全員で次世代の育成を行う必要がある。しかし、現実にはそれは困難であり、実際には一部の人が代表して出産・育児を行っている。その意味で現代の出産・育児は、警察や消防などの公務と同等の活動である、といってもよいだろう。

民主主義社会においては、社会を維持するために必要なコストを支払うのは国民の義務であり、国民は納税というかたちで貢献している。そして、そのカネで消防や警察などの公務を行っている人たちを雇っている。これと同様に、出産・育児をする人も公務に携わっていると見なせるため、税から報酬が支払われて当然ということになる。出産・育児をする人に、税金を使って子育てを委託しているわけだ。

このように考えると、「所得制限なしの子ども手当は金持ち優遇である」という批判が見当違いであることがわかるはずだ。子ども手当はあくまで育児(=社会貢献)の対価であり、親の所得とは何の関係もないからである(※1)。これは裕福な公務員に、「あなたはお金持ちだから給与を払わない」と言っているのに等しく、それが道理に合わないことは誰にでも理解できるはずである(貧富の差を云々するのであれば、所得税や地方税で再分配を行うべきである)。

結局のところ、出産・育児が社会活動の一環であるという考えが出てこないのは、その影響が明らかになるのが数十年後であるため、損失が過小評価されてしまうからだろう。子ども手当が国民の納得を得られるかどうかは、将来についての想像力と将来世代に対する責任感を現在の日本人がどれだけ持っているか、にかかっていると言えよう。

(※1)英、独、仏、スウェーデンなどにも子ども手当(現金給付)の制度がある。金額は子の数によって異なり、1~3万円の範囲内であるが、いずれの国も所得制限を設けていない。所得制限の必要性を訴える人たちは、なぜ彼等が所得制限をしていないのか、その理由を考えてみるべきではないだろうか。

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