公的年金制度で学ぶ金融リテラシー

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2009年06月09日

  • 高橋 正明

金融商品の多様化が進む中、消費者には金融に関して適切な判断を下す「金融リテラシー」が求められている。リテラシーというと難しく聞こえるかもしれないが、別に高度な投資理論を理解する必要はない。「市場運用の2倍を保証します」という金融商品の広告を見てピンと来れば基本レベルは合格である。

ところで、5月末に厚生労働省が年金制度の財政検証関連資料を公表した。報道の大半は世代間格差が大きいことに集中していたが、それよりも注目してほしいのは、どの世代も支払った保険料より多くの給付を受けられることである。2004年の財政見通しのB(運用利回りによる換算方式)によると、厚生年金の給付額は、1935年生まれの人は保険料負担額のなんと6.3倍、85年以降に生まれた人でも1.6倍とされている。85年生まれなら、保険料を年金積立金と同じ利回りで運用すると、65歳時点で6600万円にしかならないが、厚生年金では一時金換算で1億700万円が給付される。厚生年金は、市場運用では不可能な高利回りを実現できるという主張である。

これが本当ならすごいことだが、金融リテラシーがあれば「何かある」と感づくはずである。

年金給付の原資には、(1)加入者(本人)が支払う保険料、(2)事業主(企業)が支払う保険料、(3)税金(基礎年金分の1/2を賄う)の三つがある(積立金は過去の保険料が原資なので保険料に含める)。厚生労働省の計算では、(1)のみが「負担額」とされている。

まず、「税金は国民の負担ではない」という理屈が成り立たないことは自明だから、税金も負担に含めて計算しなければならないことはすぐに分かる。

企業が支払う保険料はどうか。本人にとっては負担ではない、と考える人が多いかもしれない。しかし、厚生年金制度がなければ、労働者の賃金は保険料の会社負担分だけ多いはずなので、その分も本人の負担と見なすべき、というのが(少なくとも海外では)経済学者の常識である。(※1)(※2)

簡単な数値例で説明する。保険料率が20%で、本人と企業が半分ずつ負担しているとする。これを全額企業負担にすると法律改正したらどうなるか。これから加入する若い世代は、負担ゼロで給付を受け取れるのだから夢のような話だが、もちろんそんな甘い話はない。

賃金が月額10万円なら、保険料は2万円(本人と企業が各1万円)、手取り賃金は9万円、企業の雇用コストは11万円である(Ⅰ)。企業が真の意味で負担しているなら、制度変更によって労働者の手取り賃金は10万円に増加し、企業の雇用コストは12万円に増える(Ⅱ)。一方、企業が雇用コストを一定に保つなら、賃金は9万円に減るが、手取り賃金も9万円で変わらない(Ⅲ)。この場合は実質的に現状維持である。

現実の労働市場を見れば、ⅡよりもⅢが現実に近いことが分かるだろう。つまり、「企業が半分負担してくれるからお得」なのではなく、「企業が半分払ってくれるから得に見えるが、実際はその分だけ賃金が減っているので、最終的な手取り賃金は変わらない(得していない)」ということである。年金制度がなければ11万円の賃金が、手取りでは9万円なのだから、本人の負担は2万円(Ⅳ)、と考えるべきなのである。

このように、税金と保険料の企業負担分を含めると、「厚生年金は市場運用の1.6倍以上もらえるからお得」と単純には言えないことがわかる。これは財政のプロである財務省も指摘していることで、6年前の財政制度審議会では、本人の保険料負担額は「真の負担額」の約4割であるため、厚生年金の給付と負担が等しくなるには、給付額÷保険料本人負担額が2.5倍なければならないとの試算が示されている。(※3)

2004年の制度改正後も「2.5倍」は変わらないので、これに基づいて給付額が真の負担額の何倍になるかを計算すると、1935年生まれは2.5倍だが、50年頃以降に生まれた世代は1倍割れとなり、厚生年金が「市場運用をはるかに超える夢の金融商品」ではないことが明らかになる。(※4)

一方で、公的年金を市場運用と単純比較して「若い世代は大損」と煽るのも適切ではない。今度は逆に、若い世代の負担を(昔の世代に比べて)過大評価しているためである。公的年金では、高齢者世代はその時点の現役世代から所得移転を受けるが、現役世代は無から湧いてきたわけではなく、高齢者世代が過去に産み育てた成果として存在している。したがって、子育てコストも年金制度を支える負担の一部と見なすのがさらに適切なのである。若い世代ほど出生率が低い(≒子育てコストが少ない)のだから、子育てコストを省いた“給付÷負担”倍率が低くなるのは当然であり、単純に「大損」とは断定できない。

もっとも、国民が「厚生年金は市場運用より有利」という政府の宣伝を本気で信じていたら、運用申し込みが殺到し、保険料引き上げもスムーズに進んでいたはずだが、現実はその逆であるところを見ると、大方の国民は、金融リテラシーの基本レベルはクリアしているということなのだろう。

(※1)Uwe E. Reinhardt “Is Employer-Based Health Insurance Worth Saving?

(※2)太田聰一「社会保険料の事業主負担部分は労働者に転嫁されているのか」(『日本労働研究雑誌』2008年4月号),「社会保険料の事業主負担は本当に「事業主負担」なのか」(同2004年4月号

(※3)議事次第はhttp://www.mof.go.jp/singikai/zaiseseido/gijiroku/zaiseia150912.htm。福田企画官と岩本委員の発言を参照。

(※4)1935年生まれは出生率が2なのに2.5倍も受給できるのは、兄弟姉妹が4~5人いたため、親を支える1人当たりの負担がその後の世代よりも小さくて済んだことが大きい。

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