「三でございます」

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2008年08月11日

  • 中島 節子
NHKの大河ドラマ『篤姫』の中で、篤姫と将軍家定が碁盤で五目並べをやっているシーンが頻繁に登場する。五目並べはご存知のとおり、碁石を先に五つ並べたほうが勝、という単純なものだが、ルールとして自分が三つ石を並べたら、相手にそのことを告げなければならない。篤姫は言う。

「三でございます」

三を告げてしまうと、せっかく稼いだものをふいにしてしまうようだが、それがルール。相手に自分をオープンにして勝負を挑む、そんな篤姫の潔さがいい。

五目並べで三を告げるように、日常的に相手に注意を促す暗黙のルールがあって、当然告げられるもの、とついこの前まで思っていたことが、今は当たり前ではない。三を告げたら損をする、とでも思っているのだろうか、三を告げない、三だと偽る、告げても声が小さくて聞こえない、等。

ほとほと懲りただろう、と思われるほど世間で叩かれ、市場から撤退させられた企業があっても、また別の企業で繰り返される偽装表示。食品の製造年月日が、実はそれではなかった。密封された食品は毒入りだった。注意書きなのに、「気づいてもらっちゃ困る」のだろうか、紙面の片隅の字はあまりに小さい。

これまで“当たり前”だと思っていたことは、何かの倫理観等があってこそ“当たり前”だったようで、“当たり前”の根拠は実にもろく、錯覚の上に存在していたのかもしれない。そして“当たり前”は、ご都合主義により、ころころと変わるものでもあった。

つい先日まで、霞ヶ関の深夜タクシーは、乗るとビールとつまみが出てきたそうな。時には商品券等のお土産もついてくる。深夜タクシーの常連客が「今日は何がでるのかなあ」なんて楽しみにするくらい、霞ヶ関タクシーに“当たり前の姿”があった。異例と思われることでも日常的に繰り返されれば、それはもう当たり前なのだ。人間というもの、自分に都合のいいことは、事の如何を問わず、すぐに受け入れてしまうものらしい。

さて、篤姫と家定のこの勝負、いつも篤姫が勝っている様子。

「そちは、わしの妻だと申したな。妻ならばわしに負けようとは思わんのか。」

という家定に、

「当然でしょ、ルールだもん。」

と、言ったかどうかは定かではないが、一向に負ける気配のない篤姫。夫であっても将軍とは圧倒的な身分の高さ。これが霞ヶ関の重臣なら

「上様、申し訳ございません。もう一番、お相手願います。」

と一番もうけて、嬉々として撃沈されていくのだろう。しかし、今まで自分の意に沿うようにしか接してこなかった人に囲まれていた家定にとって、篤姫の態度は新鮮な驚きであり、ますます篤姫との五目並べに熱が入る。

現代は、混ぜこぜの誘惑の中で“当たり前”をまっとうするのが大変な時代なのかもしれない。そういう時代だからこそ、“当たり前”をこつこつ行う地道な営みが、思いがけない力を蓄えていくような気がする。

平行線だった家定と篤姫をぐっと引き寄せたのも、碁盤を介して二人が向き合っていたからこそ、だったように。

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