ВыとТы

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2008年02月14日

  • 中島 節子
日本語の“あなた”に相当するのは英語ではYou1つであるが、ロシア語ではВыとТыの2つの言葉がある。Выは一般的に相手を指し、人に初めて会ったときや敬意を表する場合にも意識して使われるのに対して、Тыは家族、友人、恋人同士等、親しい間柄に使われる。

人が知り合ってВыからТыの間柄に変わっていく過程、これがロシアの代表的な詩人プーシキンに表現されるとその喜びは相当なものである。

プーシキンは「ТыとВы」の中で
『中味のないВыの代わりに心のこもったТыが
あの人の口からついうっかりこぼれ落ちた
すると私の恋する心に
幸福なすべての夢を呼び覚ましてくれた』
とその感動、感激の思いのたけを発散させている。

実際、男性が気になる女性に
「Может быть нам стоит перейти на ты?」
“「きみ」と呼んでいいかい”   と恐る恐る聞いて、これに

「Отличная идея!」
“どうぞ!”

と一言かえってくれば、彼女のハートを射止めたと飛び上がって喜ぶのかもしれない。ロシア人にとってВыとТыの使い分けはとても重要なものなのである。

ロシア語に悪銭苦闘していた私が、なんとか親しい人にはТыで話ができるようになったとき(外国人にとってはВыがТыに代わると格変化が、がらっと変わり、それはもう大変)、彼は一つの願いを込めたように言った。

「ВыがТыになったら、Выに戻ってはいけない」

今までТыで呼びあっていたのに突然Выに変わってしまったら、相手が急に遠くなってしまったように感じる、という。ロシア人はВыとТыを使い分けことによっては相手との関係を無意識のうちに確認しながら、双方の信頼を深めているように思える。Тыで話せる間柄というのは、とても大切なものなのだ。

日本語の曖昧さは時に“似非”にも繋がるような気がしてしまうのだが、この曖昧さゆえ、相手と摩擦を起こすことは少なく、相手との距離を自分の都合で変えてしまっても特段の支障もなく、渡り歩いていけるような気がする。これをロシア語のВыとТыの使い分けで考えてみると、Выで始まった関係を、ある状況の変化を契機にТыにスイッチしてしばらく歩いてみるが、事態は変わり最後にはВыですり抜けていく。そんな要領だけの関係にあっても、相手に失望することもなく、淡々とそれを受け入れてしまう。

ある会社の一こま。彼はいつも上司Aと共にあり、上司Aの手のひらに、Aが何も言わなくても、期限通りに仕上がった書類を置いていた。朝は上司に合わせて誰よりも早く出勤し、昼食も一緒、残業も一緒、時にはそろって二人で飲みに行く。そんな彼に異動辞令が出た。翌日、異動先からの電話に笑みがこぼれ、彼は夢中になっている。その横を上司Aは通り過ぎるだけで、昼食に誘う声もなかった。その日から二人の姿を一緒に見ることはない。

ТыからВыに戻ってはいけない」という相手に対する深い想いと、安易にВыからТыへ移らない気概。ロシア語のВыとТыの区別、それは単なる言語の構造だけではないだろう。

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