最高哲学責任者は必要か?

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2024年12月02日

最近、金曜日夜のX(旧Twitter)の音声配信機能「スペース」で哲学についての講義を聴くのが楽しみだ。私のように哲学を専門としない人々に、配信者が丁寧に情熱的に説明してくれる。

マルクス・ガブリエルの名前を初めて聞いたのもこのスペースにおいてである。ドイツ生まれの新鋭哲学者で「哲学界のロックスター」と呼ばれているそうである。「日本人はハイデガー読みすぎ」問題でもちょっと話題になった。

そのマルクス・ガブリエルが、最近日本向けに書き下ろしで『倫理資本主義の時代』(※1)という著作を公表した。「最高哲学責任者」はその著作で提唱されているポジションである。

『倫理資本主義の時代』を筆者は以下のように読んだ。
①資本主義を代替しうるという試みは困難である。その企てはすべて失敗してきたし、その時のダメージは大きかった。
②しかし、今の資本主義は様々な問題を抱えているのもまた事実である。
③そこで、資本主義を倫理とリカップリングさせる「倫理資本主義」を提唱したい。
④倫理的な行動はこれからの資本主義の持続に必須であるばかりではなく、新たなビジネスをも生む(新エネルギーの開発等)
⑤倫理的な行動を目指すべくすべての企業に倫理部門を設けてはどうだろうか?
⑥そして、その倫理部門を統括するのが「最高哲学責任者(Chief Philosophy Officer)」である。

確かに企業活動において倫理的な選択肢を取らねばならない局面は増えてきている。大きなものとしては環境問題が挙げられる。

またAI利活用(データ分析を含めて)における倫理的な問題もそうだ。たとえば、単純に非倫理的な説明変数を用いないことは当然であるが、AI自身が結果的に非倫理的な変数を用いた場合なども問題とされている。

もちろん、社会変動に大きなインパクトを持つ倫理とは、歴史的に見ると、社会自身の存続のために実装され、その目的を果たしてきたのだろうか(※2)という疑問は残る。倫理とは、我々がその必要性ゆえに自由に構築することができるものだろうか、そして望んだ結果を得られる種類のものだろうか?

とはいえ、私はマルクス・ガブリエルの考え方、資本主義の社会の中で倫理を設計し、実装し、そのように人々が動き、結果として社会がよくなるという考え方を一種の新しい挑戦として評価したい。倫理で解決できなければ法や国家の出番になることも理由の一つである。

それに、今、日本やアメリカの上場企業にも、最高哲学責任者(CPO)を自称する経営者、経営メンバーはいないようだ。(もちろん、それと似たような自覚や役割を持ったCEOや経営者はいるだろう)。最高哲学責任者を名乗る経営者が現れたら、その活動やその企業の行動が注目を集めることになろう。

(※1)マルクス・ガブリエル著(監修:斎藤幸平、訳:土方奈美)「倫理資本主義の時代」早川書房)(2024年6月)
(※2)例えば、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、「世俗内禁欲生活」は別に資本主義を生み出す「ために」編み出された倫理ではなく、結果として資本主義の揺籃期を支えた、と考えられる。

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江藤 俊太郎
執筆者紹介

データアナリティクス部

コンサルタント 江藤 俊太郎