不寛容な時代

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2020年10月08日

  • 児玉 卓

コロナショックは甚大な人的犠牲を払いながら、経済、社会に多様な変容の圧力を与えているが、そこには必ずしも災禍とは呼べないものも多く含まれている。例えば都市における集積のメリットは「三密」というリスクと隣り合わせであることが「正しく」認識された。またコロナショックがグローバリゼーションの逆風になっているとすれば、それはこれまでのグローバリゼーションの負の側面を洗い出し、反省を迫る契機となり得る。

ただし、こうした環境変化や気づきが、実際にどのように活かされていくかは多分に為政者の姿勢に依存する。その意味で厄介なのは、コロナショックが、いくつかの前向きな変化の芽とともに経済的激震を運んできてしまっていることだ。政策的プライオリティは否応なく経済の立て直しに向かい、変化の芽を活かす余裕が失われてしまう。更に問題なのは、景気の収縮に直面した各国政府が「犯人捜し」を始める誘惑に負けてしまいがちになることである。

例えば中国。中国は一見、経済的にはコロナショックを比較的スムーズに乗り切ったようにみえなくもない。だが同国には共産党の一党独裁という統治の正統性を、経済成長(所得水準の上昇、雇用の創出)に負っているという弱みがある。従って、景気の停滞に対する政治的許容度が極めて小さい。最近の香港政策に象徴される政治的不寛容も、少なくとも部分的にはその表出であると捉えるのが妥当であろう。米国もトランプ政権の下で、仮想敵を仕立て上げながら国民の歓心を得ることに腐心し続けてきた。大統領選挙間近ということもあろうが、米中摩擦の再燃・激化の背後にコロナショックによる米国経済の萎縮、雇用の喪失を見ることは難しくない。中国はトランプ氏にとって渦中に見出した格好の「敵」なのだ。

これは米中だけの問題ではない。例えば最近になってインドのモディ政権が「自立経済圏構想」を掲げているのも、経済的苦境の副産物としての不寛容政策という色彩が濃いようにみえる。「国産」へのあからさまなこだわりは、輸入や主要輸入国を仮想敵とすることに主眼があるとも考えられよう。

もとよりコロナショックは、各国政府にグローバルサプライチェーンのもろさを痛感させ、戦略物資や生活必需品を海外に依存することへの強い警戒感を抱かせる効果を持った。その結果、他国の不寛容(への懸念)が自国を不寛容にさせてしまうという、悪しき連鎖が働いている。これに各国経済の萎縮が拍車をかける格好になっている。

このような不寛容、ないしは米国やインドに顕著な「自前主義」の跋扈は、グローバル経済の各所に非効率を生じさせ、中長期的な成長力を損ねる要因であるが、問題はそれだけではない。経済的なデカップリングが進展すれば、政治的、地政学的リスクが徐々に、しかし着実に高じていくことにもなろう。端的には、密接な経済的リンケージゆえに米中関係が決定的に悪化することはない、といったロジックが破綻してしまうということだ。

ウィズコロナの不寛容な時代は、かねて強まりつつあったナショナリズム的風潮をより強める時代であるようにもみえる。となれば国家に既述の「変化の芽」を活かしていく役割を期待することは難しいと考えざるを得ない。だからこそ我々一人一人の、自立したアクターとしての意思の在りようがかつてなく重要になってくる。

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