2013年10月10日
賃金が増えるようにならなければ、現在の積極的経済政策が成功とはいえない、というのは確かにデフレ克服という点から核心をついている。賃金が増える政策を取ろうとすることは筆者も正しいと考える。特に一時的にボーナスが増えるというだけでなく、賃金テーブルが上昇するベースアップが一般的になってはじめてデフレ克服といえるだろう。そうなれば名目経済規模が持続的に増加する状況が作り出せるからである。
しかし、経営者にコストアップになる賃上げを説得するのは相当に困難な仕事であろう。経営者は企業の資本を維持し、利益をあげなければならない。行き過ぎた株主重視は問題があるとしても、企業利益を大きく犠牲にする人件費コストの増加は、経営の観点からは避けたいところだ。利益の増加が見通せればボーナスで従業員に報いることはできても、恒久的な固定費増に結び付くベースアップには慎重とならざるをえないだろう。経営者にとって、ベースアップをすべき環境となれば、ベースアップは行われる。つまり労働市場における需給が十分タイトになってくれば、賃上げは労働力の確保のために必要であり自然な経営判断になる。労働組合側も賃上げに必ずしも非常に積極的というわけではなく、まず雇用を守ることが大事であると考えている場合が多いのではないか。雇用安定に自信が持ててはじめて賃上げ要求に積極的になれるのだろう。そうした経済環境を作ることが経済政策の役割である。仮に労働需要が十分でないのに政治主導で賃上げを先行させれば、企業の投資意欲や雇用拡大意欲は衰えてしまう可能性が高い。
労働需要を拡大させるためには経済全体の需要の拡大が不可欠である。需要拡大といえば、GDPの約6割を占める個人消費の拡大や伝統的な公共投資拡大が近道と思われるかもしれないが、もっとも重要なのは民間設備投資の喚起である。そもそも個人消費の拡大は委縮した消費の回復は刺激しやすいが、それ以上に消費を伸ばすためには所得の拡大が必要で、まさに賃上げが必要ということになる。株価がだいぶ回復したことなどを受けて個人消費はある程度回復したが、これからさらに伸びるためには所得の拡大が必要だ。日本の家計部門の貯蓄率はすでにかなり低く、2011年度で1.3%となっている。所得の本格的増加なしに、消費が増加することは期待できない。公共投資は国土強靭化や被災地のインフラ復興という課題もあり当面これまでよりも高いペースで推移すると思われるが、労働需給のタイト化やベースアップの実現という点で過大な期待は抱けない。これに対して民間設備投資の拡大は、需要面での乗数効果の環の真ん中にある。投資減税等の政策で民間設備投資を刺激することは、正の循環を支えることになる。過剰投資に陥ることは避けなければならないが、中長期的な日本経済の成長力から見て、2012年度で66.5兆円だった民間設備投資が80兆円程度まで増加することは望ましいし、企業にはそれだけのキャッシュフローが十分にある。そうした投資需要拡大によって労働需要も喚起でき、労働需給のタイト化に結び付くことになるだろう。
それでは、ベースアップが無理なく自然に行えるような労働需給のタイト化というのはどのあたりを目安とすればよいのだろうか?ベースアップがわずかながらでも一般的に行われた最後は、おそらく1997年だろう。ただし、消費税増税の年なので実質は低下していた可能性があるものの、「決まって支給する給与」(厚生労働省「毎月勤労統計調査」)は、前年比1.3%増。前年の1996年を見ると、やはり同1.3%の増加であった。90年代前半はこれより若干高い増加率になっている。賃金上昇率がまずそうした状況に回帰することが望ましく、2%以上になってくればCPI上昇率2%のもとで実質賃金の増加も起きる経済が想定できる。
では当時の労働需給の状況はどうであったか?90年代前半(1990-1994年)平均の完全失業率は2.3%(総務省「労働力調査」)、有効求人倍率は1.06倍(厚生労働省「一般職業紹介状況」)だった。直近(8月)は完全失業率(季節調整済み)が4.1%、有効求人倍率は0.95倍である。完全失業率(同)はピークの2009年7月5.7%から4年かけて1.6%ポイント下がった。このペースで低下していっても2%台半ばになるには3年ほどはかかるだろう。有効求人倍率(同)は1倍を超えることで失業の減少が確実なものになってくるが、90年代前半の平均が1.06倍、前回のピークが1.08倍(2006年7月)なので、いったんこのあたりを超えてくることが必要だろう。
次期FRB議長との下馬評が高いイエレン副議長(サンフランシスコ連銀総裁)は、FRBに法律で定められている2つの責務=雇用創出と物価安定を重視するとしばしば発言している。実質的には雇用創出に重きをおいており、政策判断の基準としてインフレ率だけでなく失業率など労働市場の指標を重視する姿勢がある。米国の物真似をすればいいわけではないが、今後の日本の金融政策のあり方、どのようなタイミングで「質と量の緩和」からの出口を構想するかを考える上で参考になると思われる。
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