目先も必要だが、本質を見失ってはならない

—昨今の消費税引き上げの延期論争に関して—

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2019年05月24日

  • 道盛 大志郎

5月13日に発表された景気動向指数において、基調判断が6年2か月ぶりに「悪化」に変更されたことから、改めて、10月に予定されている消費増税が延期されるのではないか、との憶測が飛び交っている。4月に萩生田自民党幹事長代行が「延期もあり得る」と発言して以来燻ってきた噂に火がついた格好だ。20日の1~3月期GDPを巡ってと同様、経済指標の発表毎に、その数字と評価を巡って、一喜一憂が当面続くことになろう。

もちろん、財政は国民生活の向上に資するためにあるのであって、増税のような外的ショックを講じる際には、経済の機微に十分注意しなければならないことは当然だ。しかし、6年を超える戦後最長の景気拡大期に、3度にわたって消費税引き上げを回避することにするのなら、いったいどのような条件であれば負担増ができることになるのだろうか。

野党の選挙準備が遅々として進まない中、内閣支持率が上昇しているのを見て、与党として色気が出てくるのは政治的には当然なのかもしれない。しかし、そうした目先の政治的意図が、我が国の将来に優先されるようなことがあってはならないだろう。そもそも、増税を財源に予算計上された、保育士の待遇改善等は既に実施に移され、幼児教育無償化等への準備も着々と進む。これらを反故にしないのであれば、引き上げ延期はただの食い逃げでしかない。誰も損しないそのような案を担いで、責任政党が選挙に打って出て国民に問うのが民主主義なのであろうか。

少子高齢化、人口減少の重い課題を乗り越えるため、政府は、出生率の向上を最重要政策のひとつに掲げる。日本経済を支える若者が増えれば、経済の活性化に資するとともに、老人を支える層が分厚くなって、支え合いの構造の持久力が高まる、という算段だ。だが、それだけでは時系列に沿った思考が欠けている。子供を増やした若者は、老人の面倒を見るとともに、社会人になるまでの20余年、子供の面倒を見る負担も背負うことになるのだ。その重さは、幼児教育や高等教育の負担を軽減すれば解決されるような生易しいものではない。将来はともかく、良かれと思ってやっていることは、ひたすら若者の負担を増やしているのだ。

ある経済学者の試算によると、消費税だけで財政需要の増加を賄おうとすると、いったん50%近い消費税率が必要となるが、いずれ低下に転じ、やがて20%程度に落ち着くのだという。数字の絶対値は、受益の程度や将来の人口・経済の仮定の置き方によるので、それにこだわることは適切ではない。ただ、そこから導かれるのは、人口規模や年齢構成が変化していく時代に生きる人々が過重な負担を余儀なくされ、変化が収まって安定化すれば、今より大変とはいえ、また落ち着いた財政に戻っていく、ということだ。今そこにいる若者のためを思えば、無為に過ごせる時間は決して長くはないのだ。

そもそも、消費税10%への引き上げへの道のりは、福田政権下で2008年1月に設置された社会保障国民会議における議論がはじまりだ。その後、「自民党⇒民主党⇒自民党」の政治の激変、リーマン・ショックと東日本大震災という戦後史に残る2大ショックに見舞われる中で、最後は、民主党・野田首相が、自身の政権の瓦解と引き換えに、自民党が端緒を作った社会保障・税一体改革法を成立させた。2012年8月のことだ。

その後、安倍政権が誕生し、2012年12月から戦後最長の好景気が続く中で、引き上げの延期をするかしないかを巡る思惑だけが浮き沈みし、2008年から起算すると、12年近い時間が過ぎ去ろうとしている。その間、今後に向けての根本的な議論は何ら進んでいない。諸外国の議論のペースに比較すると、あまりの違いに愕然とするばかりだ。このようなことをいつまでも繰り返していると、今の若者の時代自体が終わってしまい、その間に、私など年長者は逃げ切りを果たし、ツケだけがこれからの世代に蓄積していく。

負担増に向ける厳しい目、という点では、我が国は諸外国の中でも群を抜く。それは決して悪いことではない。しかし、それを貫くなら、受益にもっと厳しいメスを入れなければ、膨大なツケだけが残される。先送りの繰り返しに終止符を打ち、少しでも早く真摯な議論が始まることを祈っている。

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