最低賃金引き上げに求められる「三方良し」の精神

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2016年09月26日

今世界を見渡せば、日欧の中央銀行で非伝統的金融政策の競演が続いている。日本銀行は過去に例のない大胆な金融緩和を実施しており、その行方が金融市場の最大の関心事になっている。他方、日本では、アベノミクスの下で、「官製賃上げ」とも揶揄されるもう一つの非伝統的政策が着々と進められている点にも注目したい。

安倍政権は、経済再生を実現するために企業収益の増加に見合った賃金上昇が必要だと考え、今からほぼ3年前の2013年9月20日に政労使会議の初会合を開催し、政府・労働者・経営者が協調して明確な賃金上昇の実現に取り組む姿勢を強く打ち出した。さらに、安倍首相は、低所得者対策や格差対策などのために最低賃金を毎年3%程度引き上げて、将来的に時給を1,000円まで引き上げる方針を示している。なお、2016年度の最低賃金の引き上げ幅は、全国加重平均で過去最大の25円(前年度比3.1%相当)と決定され、最低賃金の水準は823円と初めて800円台に乗ることとなる。新たな最低賃金は10月から適用される。

一般に、最低賃金の上昇は「底上げ効果」により、間接的に労働者全体の時給の上昇に寄与すると考えられる。また、近年、最低賃金が大幅に引き上げられてきた影響などで、最低賃金と同水準で働く労働者数が増加しているため、最低賃金の上昇が直接的に労働者の時給を押し上げる効果も強まっている。この最低賃金の引き上げは、労働者の所得の増加を通じて個人消費を活性化させる側面がある一方で、企業にとって、直接的に人件費を上昇させることから、特に地方および中小企業の経営に対して深刻な問題となり得る。

こうした賃上げの動きに対して、現在、政労使の間で意見の相違が見られる点に留意が必要だ。政府としては、2012年末以降に企業収益が大きく増加する中で、それに見合った賃上げが実現できていないとの思いもあり、今後も賃上げを継続することが重要だと考えている。経営者の立場からは、人件費の上昇を通じた企業収益や事業経営に対するマイナスの影響が大きな懸念材料である。労働者にとっては、所得の増加につながる最低賃金の引き上げは好ましいものの、それによって企業がリストラなど人員調整を強めないか心配だとの声も聞かれる。

今後、企業の実情を無視した一方的な賃上げが行われてしまうことになれば、政労使の意見が対立して「三すくみ」のような状況に陥るリスクがある。そこで思い起こしたいのは、近江商人の心得として有名な「三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)」である。少し強引ながらも、これを政労使に置き換えると、①政府が企業の「稼ぐ力」と労働生産性を向上させる経済環境を作る、②企業が収益の増加分を適切に設備投資や労働者に配分する、③労働者が増加した所得をしっかりと消費に回して経済の好循環を再起動させる、となる。最低賃金引き上げを巡る議論においては、こうした賃金版「三方良し」の精神が求められよう。

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長内 智
執筆者紹介

金融調査部

主任研究員 長内 智