伊藤若冲の絵に思う
2016年06月14日
先月のある日、休みを取って「若冲展」を観に行った。そこには、単に美しいものに触れる以上のものを考えさせる何かがあった。
日本画に詳しくない筆者ではあるが、伊藤若冲は江戸時代の画家で、その技術と資源をふんだんに用いた超絶技巧で、現物の美しさや質感まで驚くほどの細密な描写で再現するところがすごいという評判は認識している。特に今回の展覧会では、その中でも最高傑作と謳われる「動植綵絵」全30幅が一堂に揃う上、元々は京都の相国寺で一緒に並べられていた「釈迦三尊像」も同じ場所で展示されると言う。早速、2階の展示室に行ってみた。そこは「釈迦三尊像」と30幅の「動植綵絵」が円を成すという形になっていた。絵一枚一枚が創り出す濃密な空間に、私は陶然とした。
若冲はなぜあそこまでの技巧を駆使して絵を描くのだろうか。この展示室に来て、その一端がわかった気がした。それは「信仰」の力だ。「信仰」がないと、人は忘我の境地で道を究めることはできない。そして、若冲の場合、生きる物一つ一つに向ける視線が限りなく優しい。淡麗な鶏から、見落としてしまいそうな尺取虫まで、生きとし生けるもの全てに目を向け、その全てが同じステージ上で平和に生を謳歌しているのだ。その光景を「幸せ」と呼ばなくて何であろうか。そしてこの「幸せ」を守っているのが、同じ円の中に鎮座する「釈迦三尊像」なのである。生き物の生の謳歌に対する「信仰」、それこそが若冲にあそこまでやらせた原動力なのではないか、とひしひしと感じた。私は、頭の中でルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」が鳴り響き、危うく落涙しそうであった。それ位、この展示の仕方は素晴らしかった。
さて、そんな若冲は、「私の絵は、1000年後にならないと、決して理解されないだろう」という主旨の言葉を残しているらしい。これは、彼の用いた超絶技巧は1000年後になってようやく理解出来るほどの時を超えたものだということと一般には理解されている。しかし、一つ一つのつましい幸せが集まって全体でハーモニーを奏でる大きな幸せを構成しているんだ、という彼のメッセージ(と少なくとも私は受け取った)は、様々な背景の違いにより紛争が絶えない世界の今を生きる現代人にとって、非常に示唆があるとは言えないだろうか。もし若冲が、技巧のことだけでなく、平和思想についても、300年後になれば重要さが理解できると考えていたのだとすれば、その先見の明たるや恐ろしいことである。美術館を出る頃には、やはり日本人は、長期視点での取組みに強く惹かれるのだと、あらためて実感した一日となった。
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