米沢藩の財政改革から学ぶこと

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2004年06月01日

  • 原田 泰
米沢藩主、上杉鷹山は、「人民のための君」という言葉で高名であり、藩の財政改革を成し遂げたことで名君と謳われている。しかし、マーク・ラビナ教授の『「名君」の蹉跌』(NTT出版)によれば、説教は無益だったという。

米沢藩が財政危機に陥ったのは、外様大名である上杉家が、徳川初期に領地の9割を奪われたにも関わらず、藩士のリストラが不十分だったからだった。領地を奪われた対策として、米沢藩は藩士の25%を解雇したが、それでも武士対農民比率は異常に高く、藩の人口の4分の1が武士だった。これでは、農民をいくら絞っても藩の財政は赤字になるしかない。藩は漆の専売を行ったが、収入を上げるために、農民にはきわめて不利な制度だった。農民は漆を疫病のように嫌い、漆の木が枯れるようにと努力したという。

米沢藩の財政が改善したのは、武士に養蚕と機織を奨励したことによるという。その結果、小企業家になった武士も出現した。要するに、年貢を取るだけの武士階級を、生産活動を行う階級に転換したことが、米沢藩の財政改革が成功した理由だった。これにはその後の副次効果があった。俸給が貧弱だったので経済活動に従事していた米沢藩の藩士たちの中には、明治期になって実業家として成功するものが続出した。隣の庄内藩では、俸給が十分だったので、実業家として成功した武士はいなかったという。小さなリストラの経験から学んで、後の廃藩置県という大きなリストラをなんとか乗り切れたということだ。

武士農民比率と同様に、高齢者勤労者比率も重要である。年金改革と年金未納が問題になっているが、社会が高齢化するとは、武士が増えて農民が減るようなものだ。2030年には、人口の3分の1以上が年金受給資格のある高齢者になる。年貢をいかに取り立てようとしても所詮限度がある。現行の年金ですら徴収できないのに、なんで増額した年金保険料が取り立てられるのだろうか。米沢藩は、武士が経済活動に参加することによって財政を立てなおした。年金財政の立直しも、年金給付開始時期を遅らして、年金受給者対年金保険料給付者比率を下げることによるしかないのではないだろうか。

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