地域・パブリック 経済・ビジネストピックス
大震災で変わるまちづくりの発想 ~コンパクトシティ再考~

2011年6月15日

先の大震災で壊滅的な損害を被った市街地をどのように再建してゆくべきか。いくつかの理由からそのあるべきイメージは「コンパクトシティ」であると考える。

産業構造の変化を踏まえた街のキャパシティ

街を広義の生産手段と考えた場合、その栄枯盛衰は産業構造に規定される。人口の半分以上が農家だった時代、住民は土地を離れることができなかった。映画「三丁目の夕日」の時代、臨海部に大工場が林立し町工場の勃興著しかったころ、そこで働く人々が移り住むことで街は大きく成長していった。そして情報技術が産業の雌雄を決する時代となり、企業は東京とその他いくつかの大都市に集中するようになった。情報ネットワークはその網の目が密であるほど効率がよく、もともと出版や印刷業が集積していたことからも察しがつくが、東京は情報産業に有利な立地であった。競争戦略において研究開発やマーケティングの重要性が増すほど、情報の発信源と受け手を結ぶネットワークが充実しているほうがよい。そのいっぽうで、その他多くの中小都市は工業の衰退とともに縮小する傾向にある。企業城下町として栄えたところで特にそうだ。

このように、街に住まう人の数は基盤となる産業構造の影響を受ける。ペティ・クラークの法則を持ち出すまでもなく、農林漁業から工業へ、工業からサービス業とりわけ情報産業に産業の重点はシフトしてゆく。時流の産業に適していれば栄えるし、どうにも適応しきれなければ街から人はいなくなってゆく。だから、まちづくりにあたって必要なのは10年、20年先の産業構造を想定することだ。ここから将来人口を予測して、住まう人の器となる街のキャパシティを見積もる。

大震災の被災地に目を転じて、生産活動の主力が漁業である場合を考えよう。漁港から発祥した街には、製造業といえば造船業のほかに缶詰、冷凍食品、干物工場。商業といえば魚市場と鮮魚仲卸といった具合に、経済の大部分を漁業が支える構造が少なからず見られるはずだ。漁業をとりまく環境は担い手の高齢化や輸入産品との競争などがあって厳しい。課題解決策を講じるのが第一ではあるが、基幹産業の衰退が街の総人口を押し下げる可能性も念頭に置いたほうがよいだろう。

1993年7月13日、最大震度6の北海道南西沖地震が奥尻島を襲った。東日本大震災と同じように津波被害が大きく、島の人口の4%にあたる198人の死者、行方不明者があった。地震前の国勢調査で平成2年の奥尻町の人口は4,604人。基幹産業は漁業で全産業に占める割合は19%であった。建設業(16%)や農業(4%)のウェイトも大きい。東日本大震災の被災市町村の中には、規模と産業構造が奥尻町と似ているものがある。その後、奥尻町は住宅地の高台移転、防潮堤や避難誘導路の整備など復興事業を実施したが、いっぽう人口減少を食い止めることはできず、平成22年の速報ベース国勢調査人口は3041人と地震前の約3分の2の水準まで落ち込んでいる。平成22年は集計したばかりで内訳がわからないため、前の調査の平成17年を平成2年と比べてみると、減少幅がもっとも大きかったのは15歳未満の層であった。就業者では漁業の減少幅がもっとも大きく、製造業、農業も多かった。基幹産業の衰退が総人口の減少をもたらした。きっかけは確かに大地震であろうが、産業シフトの構造要因も伺える。なお復興需要によるものか建設業は横ばいを維持した。

北海道奥尻町の国勢調査人口の減少要因

年齢層の変化を想定した街のデザイン

次に、街のありようは交通手段に規定される。以前書いたように、主要交通手段が舟運、鉄道そして乗用車に変遷するに従って、街の中心が河岸沿い、駅前通り、そしてバイパス道路から高速道路のインターチェンジの麓に換わってゆく。たとえば石巻市は、北上川中洲の対岸が市街地のはじまりである。当地初の百貨店がここにあった。そして市街地は石巻駅に向かって伸びていく。北上川河岸と石巻駅をつなぐ立町通に商店街ができたのは昭和46年。乗用車普及率は20%をやっと超えるくらいであった。駅前商店街が一番賑わっていた時代である。その後、乗用車が一家に1台以上行き渡るようになって、車生活に適応したスタイルの新しい街が、旧来のしがらみを避けるようにかつての辺境地に作られていった。広々としたバイパス道路沿いに大型店が建ち並ぶ風景が広がる。石巻の場合はさらにインターチェンジの麓に移っていった。背景には三陸自動車道の開通があった。内陸の蛇田地区に広大な駐車場をもつ大型ショッピングセンターが開店し、地域拠点病院も引っ越してきた。そのいっぽうで自動車が普及する以前に最盛期を迎えた駅前商店街のシャッター街化が問題となる。このような傾向は東北地方のどこにでも見られる。以前、街の発展史における「交通史観」として書いたとおりだ(※1)

おおむね番号の順で石巻市の「中心地」は移っている。なお網掛けは大津波による浸水地域を示す。

東京は別にして、社会が豊かになるにしたがって、移動手段の主流が鉄道やバスなど公共交通手段から乗用車に遷っていくある種の法則性が見出せないか。生産体制が大量生産から少量多品種生産になったことに通じる。いずれも、顧客のニーズが高度かつ多様化したからだ。めいめいが発着時間を気にせず出かけて、なんでも揃う専門店で買い物ができ、山にも海にも足を伸ばせる利便性は何事にもかえがたい。住民が1人1台の自家用車を持つようになり、ターミナルを経由せず分散した拠点どうしを直線移動する自由を現代人は獲得した。

しかし、次世代の街をデザインするにあたってこうした前提は持続可能なのだろうか。2つの理由から疑問がある。ひとつは、高齢化社会を迎え、乗用車を自分の足代わりに使えない人が増えてくること。もうひとつは、大震災のガソリン不足問題を通じて、乗用車が有事に案外頼りにならないことがわかったからである。

まちづくりをマーケティングの観点で捉えた場合、提供すべき街は顧客住民のニーズを汲んだデザインに仕上げなければなるまい。これまではおおむね車社会に適応したまちづくりが行われてきた。今後高齢者が社会の多数派を占めるとすれば街は彼らにとってやさしいデザインとなる。徒歩や公共交通で移動できる街。たとえば動く歩道を縦横に敷き詰めた羽田空港ターミナルビルのような街を筆者は想像する。そこまで極端でなくても、中心街にはプロムナードが張り巡らされ、もう少し広い範囲は低床仕様のバスや路面電車に乗って移動するような街になるだろう。

現状、「コンパクトシティ」について語られるとき、それは市街地が郊外に拡散し中心商店街がシャッター街の様相を呈してしまったことの反省に立っている。よってコンセプトは駅前市街地の活性化とほとんど一体だ。筆者は、「コンパクトシティ」はシャッター街の活性化とは違う論点だと考えている。昭和40年代に全盛を迎えた駅前市街地ではなく、車社会に適応する形で辺境に新しく発生した中心地を補完し、徒歩と公共交通で移動できるようにする発想の転換が必要なのではないか。乗用車が移動手段の主流になるにしたがって市街地が拡散したのは確かにそうだが、場所を変え、形を変えて都市機能の集積自体は存在している。駅前からバイパス沿い、高速道路のインターチェンジと場所は変わったが、大規模ショッピングセンターの周りに病院や公共施設が集まって新しい中心を形成しているではないか。たとえばここに鉄道線を引き、新しい駅前に集合住宅を建てて都市居住を促す(※2)。これこそ市街地問題の弁証法的解決策であり、復興のヒントもここにある。目指すべきコンパクトシティは、移動の自由を一定度享受すると同時に徒歩にもやさしく、誰も排除することのない街だ。街の「ユニバーサルデザイン」とでも言ったものか。

予算制約を考慮した街のスタイル

財政が危機的状況にある中、できるだけコストを節約して最大のサービスを提供するような街を作らなければならない。このような予算制約を踏まえるとコンパクトシティの必然性は高い。街を公共サービスの提供システムと捉えた場合、医療、高等教育、文化その他都市が提供する公共サービスは周辺市町村でシェアリングしたほうが効率よい。必要なときに必要なだけ使うようにすればよいのだ。

また、電気、ガス、水道そして電話のようなネットワーク状のものは、使う人が多く網の目が密であるほど1人当りのコストは安くすむ。なので、コンパクトシティとして開発する区域内に水道パイプライン網はじめ公共インフラを集中整備したほうが効率よい。その区域の顧客住民は格安で公共インフラを利用することができる。つまりナショナルミニマムの提供区域を構築する考え方だ。さらに集合住宅とセットで整備すれば、生活コストが安く利便性の高い都市生活を提供できるようになる。単に小さいだけであれば、それはコンパクトシティではなく「スモールシティ」と呼んだほうがよい。大震災を経て新たに目指す街は小さい中にもベーシックな都市機能が一通り揃っている。

もちろん、すべての人がコンパクトシティに住むようになるわけではない。郊外のゆとりある区画に戸建住宅を建て、自然とともに生活することに価値を見出す人もいて、そういう人はコンパクトシティ区域外に居住することになる。ただ、こうしたところにネットワークを伸ばすのは非効率であるため、たとえば水道であればパイプラインではなく集落単位で飲料水供給施設を設けるなど、独立型システムを組み合わせるのがよいだろう。応分のプレミアムがサービスコストに乗せられることになるが、理解は得やすいと思う。別荘分譲地のイメージに近い。コストパフォーマンスを志向するか、コストを負担して自分流の生活を貫くか、要は選択の自由があることがこれからのまちづくりのポイントだと考える。

最後に、災害の再来を見越した街の再建にあたって「防災」と「減災」の配分をどうするか。高台を造成して市街地を築き、城壁よろしく防潮堤をめぐらす山城のようなまちづくりもひとつの考え方だが、今後の人口推移を見込みつつ慎重に検討したいところだ。数十年後に再び大津波が襲来したとき防潮堤の内側に人がいなければ残るのは国と地方の二重ローンのみである。迫り来る大津波を迎え撃つ要塞都市は頼もしい反面それなりのコストがかかる。仮に、住民1人当たり百万単位でかかるとすれば、それを支度金として息子夫婦が住む都会に移住したいという被災住民も出てこよう。

街のキャパシティが将来的に小さくなるとみる場合、減災に重きを置くのも一考だ。衛星電話の拡充、避難ルートの整備など、地震や津波に際して波及する損害を最小に食い止め、その後の建て直しがしやすい仕組みを構築する。さらに沿岸地域であれば有事の補給路としてシーレーンを強化。パーキングエリアや校庭をヘリポートとしても使えるようにし、ヘリ空母から救援隊が着陸できるようにするのはどうだろうか。小学校や体育館その他の行政施設はあらかじめ多目的に設計しておく。いざというとき互いに転用できるようにするためだ。

(※1)「交通史観が示唆する市街地活性化の行く末」2010年7月14日付大和総研コラム
ちなみに筆者は宮城県仙台市に生まれ育ち、大学卒業後石巻市と福島県いわき市に合わせて8年住んでいました。親戚知人の被災の報を聞くにつけ無念と悔しさを感じます。大震災で犠牲になった方の冥福をお祈りするとともに、故郷の復興を心から願うものです。

(※2)かつて産業構造の転換で移住を余儀なくされた労働者向けに雇用促進住宅が整備されたが、震災復興にも同じ仕組みが応用できよう。

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