アセアン諸国(アジア新興国)のM&Aとバリュエーション(下)

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  • 矢幡 静歌

前号(上)では、日本企業がアセアン諸国へ実施するM&Aの近年のトレンドについて概観した。これまで生産拠点と認識されていた新興諸国が経済発展に伴い消費市場・販売拠点としての重要性を高めていることや、小規模のM&A件数が増加していること、アセアン諸国の中でも特にインドネシアやベトナムといった中所得国におけるM&A進出が活発であることなどがデータより見て取れた。


今号(下)ではM&A実務としての新興諸国バリュエーションにおける適切な評価手法(アセット・アプローチ、マーケット・アプローチ、インカム・アプローチ)の留意点について検討したい。


■先進国と新興国の法制度や商習慣の違いが評価方針の違いを生む可能性(アセット・アプローチの場合)


新興諸国のバリュエーションにおいて、特に交渉相手が現地企業等である場合は、前提となる認識が異なることもあり、日本企業が合理的と判断した方式が容易に受け入れられるとは限らない。


簿価純資産のうち有形固定資産等を時価に修正して評価する修正簿価純資産価額方式による評価は、新興諸国の現地企業との交渉においても重要な尺度となりうるが、アジアにおける新興諸国では日本的なアプローチが馴染まないこともある。例として、ベトナムにおけるケースを紹介する。


社会主義国であるベトナムでは、土地はベトナム国民全体の共有財産であるが、国民を代表して政府が統一的に土地の管理を行っていると解釈される。そのため、現地企業が事業を営むための工場用地などは、政府から付与された土地使用権をもって使用している(※1)。土地使用権の譲渡等は可能であるものの、譲渡にあたっては政府への申請が必要となり、使用目的が変わる場合は認可を得られない場合がある。したがって、日本的な評価の考え方であれば、事業を精算した際に政府に返還され、実質的な遊休地とならない土地の含み益を考慮することは難しいと判断されるだろう。しかし、ベトナムの現地企業が土地の使用権を得るためには審査を要し、現地企業がそのようにして得ることのできた土地に対して、プレミアムを評価することは当然であるとの認識を持っている場合がある。また、ベトナムでは都心を中心に土地の価格が高騰していることもあり、時価評価しないことに疑問を持つケースもある。このような事例を見る限り、日本と現地の資産性の捉え方に相違がある場合があることに留意すべきであろう。


■非上場企業における類似会社比較方式の採用は困難なケースも(マーケット・アプローチの場合)


マーケット・アプローチの一つである類似会社比較方式は、非上場である対象企業と同事業を営む上場企業の倍率指標を用いて評価する。そのため、類似会社比較方式の採用における最も重要なポイントの一つは、比較対象企業の適切な選択である。本方式は、対象企業に対してマーケット視点の評価がなされるため、交渉相手の理解も得られやすい方式の一つであると考えられる。しかし、日本や欧米諸国と比較して、新興諸国のマーケットは未成熟であり、対象会社との類似性を持つ企業の総数が少なく、選択された類似会社の倍率指標に偏りが出てしまう場合もある。また、新興諸国市場は開示情報が少なく、業績予測などがされていないことも多い。結果として、適切な倍率指標を得ることが難しく、採用が困難なケースも少なくない。


■高い成長性、インフレ率、カントリーリスク等、先進国と全く異なる事業環境(インカム・アプローチの場合)


前号(上)でも見たように、近年のアセアン諸国M&Aの動向として、多くの日本企業はアセアン諸国の中所得国における比較的低賃金かつ高いスキルを持つ人材の獲得と同時に、チャイナ・プラス・ワンなどで一極集中リスクの低減を図っていると考えられる。中国に続き、先進国企業の成長戦略の上で重要なポジションを占めるようになったアセアン諸国は急激な経済成長を遂げている。


そのような背景もあり、新興諸国における企業の成長率は高い経済成長性の恩恵を受け、二桁の成長率を見込むことも少なくない。企業自体の成長性の妥当性を検討するためには、新興諸国のGDP伸び率等による市場成長性を考慮したうえで、キャッシュフローの上昇要因を分解し、慎重に検討していくことが重要である。


また、近年において多くのアセアン諸国では、好調な経済を背景に最低賃金の大幅な引き上げや制度改正の動きが増加している。特にインドネシアではストライキやデモなどが活発であり、日系企業が集積するジャカルタ周辺などでは、最低賃金を4割以上も引き上げる事例が相次いでいる。新興諸国のインフレ率は高く、今後も高水準が見込まれるため、キャッシュフローの検討においては労賃等の上昇リスクも考慮すべき要素だろう。また、投資についても、タイミングによって割引率やインフレ率の影響を受けるため慎重に計画する必要がある。


さらに、新興諸国のマーケットは未成熟であるため、ヒストリカルデータに基づく市場期待収益率の推計ができず、どのようにマーケットリスクプレミアムを推計するかといった問題や、当該国のカントリーリスクをどのように割引率に反映させるのかといった問題に直面する。これらの点については様々なアプローチがなされており、先進国と当該国との国債スプレッドを利用する手法や、グローバル市場を定義した上で現地マーケットの市場期待収益率を推計する手法などが開発されている。


■おわりに


以上、二回にわたりアセアン諸国のM&Aとバリュエーションについて検討した。


前号では、生産拠点から消費市場へとシフトしつつあるアジア新興国への進出が、日本企業の成長戦略を進める上でも重要な手段の一つとなっていることが分析できた。


また、今号ではM&A実務の一つであるバリュエーションに焦点を当て、新興国における留意点を検討してきた。


成長市場として見込まれるアジア新興諸国は魅力的でありながらも、制度やコンプライアンスといったリスクが内在していることも事実であろう。また、情報量も少ないうえに、M&A実務において考慮すべき事項は多岐にわたる。新興諸国への進出にあたって、対象企業の実態の把握や、バリュエーションの手法の検討も含めて十分な調査を行うことが大事である。


(※1)2004年7月1日より施行された土地法及びその施行細則の政令・通達等により、土地を利用するには使用権を取得することが必要となった。なお、外資企業の場合、使用権の期間は原則50年を越えない期間とされている。一方、ベトナム国民であれば永久土地使用権が認められており、そのあたりの違いも現地企業と考え方が馴染まない理由かもしれない。

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