タイ:漁業における「奴隷労働」問題の背景

RSS
  • 金融調査部 研究員 中 澪

1日20時間に及ぶ強制労働、日常的な暴行・虐待、時には殺害されるまで—。タイの漁業における移民や人身取引被害者の悲惨な労働実態が報道され(※1)、欧米を中心に国際社会からの非難が相次いだ。米国は国務省が発表する“Trafficking in Persons (TIP) Report”の中で、タイを最低ランクのTier 3に分類した(※2)。同報告書でTier 3とされた国は、大統領貿易促進権限(TPA)法により、米国との通商協定の締結が禁じられる。欧州連合(EU)からは、違法・無報告・無規制(IUU)漁業国への指定を警告する「イエローカード」が出された(※3)。指定された場合、タイからEUへの水産物・水産加工品の輸出が停止される。


タイの漁業は労働力の大部分を移民に依存している。海の上での厳しい労働が敬遠され、タイ人の担い手が減少しているためだ。国際労働機関(ILO)が実施した調査(※4)によると、調査対象となった4県(ラヨン、サムットサコーン、ラノン、ソンクラー)全てにおいて、漁業従事者に占めるタイ人の割合は全体の5%以下に留まり、最も低い。県別にみると、カンボジアに近いラヨン、南部のソンクラーではカンボジア人の割合が最も高く、それぞれ全体の92.5%、65.7%を占める。他方、バンコクに隣接するサムットサコーン、ミャンマーの南部と国境を接するラノンではミャンマー人の割合が最も高い。特にラノンでは、回答した132人全員がミャンマー人であった(図表1)。

図表1:漁業従事者の国籍別人数

こうした移民とタイ人との間には、大きな賃金格差がある。所得階層でみると、ミャンマー人とカンボジア人ともに、月額5,000バーツ以下の収入しか得られていない層が全体の半数を占め、最大となっている。タイ人の場合、その割合は10.2%に留まり、5,001~10,000バーツの収入を得ている層が全体の半数以上を占める(図表2)。労働力の量的な面では移民に頼りながら、他方、賃金ではタイ人と移民との間に明らかな格差が存在していることが分かる。

図表2:漁業従事者の国籍別月額賃金

問題の背景として、労働力の量的な不足はよく指摘されるところだが、より本質的には、賃金と労働生産性の激しいギャップがある。図表3は、タイの漁業における名目平均賃金と名目労働生産性(名目GDP/就業者数)、単位労働コスト(雇用者報酬/実質GDP)を示す。2001年を基準とした場合、賃金は10年間で約1.4倍に上昇した。一方で、労働生産性は約0.85倍に低下し、単位労働コストは約1.3倍となった。生産性の向上が伴わない賃金上昇は漁業の収益性を損ない、相当に安価な労働力の確保なしには漁業が競争力を維持することは困難となった。結果として、言語障壁や必ずしも合法ではないステータスを抱える移民が搾取の対象となり、漁業の競争力維持のための役割を担わされている現実がある。

図表3:タイの漁業における名目平均賃金と名目労働生産性、単位労働コストの推移

しかし、タイ人の確保が難しいからといって立場の弱い移民を搾取して代替しようという発想は、人権に対する意識が低すぎると言わざるを得ない。仮に雇用慣行や労働条件が改善したとしても、長期的には持続性にも乏しく、いずれ限界が訪れるだろう。タイと周辺国の発展格差が縮小すれば、自国により多くの雇用機会が生まれ、移民の数自体が減少していくと考えられるからだ。安価な労働投入に依存しなければ産業が成り立たない現状は、タイの漁業が労働集約型から脱却できていないことを意味する。既に起こっている問題への対応として、移民の権利を保障する法制度の整備や人身取引被害者へのケアが必要なのは言うまでもないが、より根本的には、産業調整も視野に入れつつ、問題の温床となっている漁業の生産性をいかに高めるかを同時に議論していくことも重要であろう。


(※1)The Guardian(2014)“Trafficked into slavery on Thai trawlers to catch food for prawns”,(最終閲覧日:2016年6月22日)
(※2)United States Department of State(2014)“Trafficking in Persons Report 2014”,(最終閲覧日:2016年6月22日)
(※3)European Commission(2015)“EU acts on illegal fishing: Yellow card issued to Thailand while South Korea & Philippines are cleared”,(最終閲覧日:2016年6月22日)
(※4)International Labour Organization(2013)“Employment practices and working conditions in Thailand’s fishing sector”,(最終閲覧日:2016年6月22日)

このコンテンツの著作権は、株式会社大和総研に帰属します。著作権法上、転載、翻案、翻訳、要約等は、大和総研の許諾が必要です。大和総研の許諾がない転載、翻案、翻訳、要約、および法令に従わない引用等は、違法行為です。著作権侵害等の行為には、法的手続きを行うこともあります。また、掲載されている執筆者の所属・肩書きは現時点のものとなります。

関連のサービス