歴史から垣間見える新興国の「底力」

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  • コンサルティング第二部 主任コンサルタント 天間 崇文
近年、先進各国の政治・経済が停滞し、替わって中国、インド、及びASEAN諸国等「新興国」の急激な経済成長が注目されている。2010年の内閣府の推計でも、2030年には新興国の総計GDPは世界の4割近くに達し、世界経済の勢力図が大きく塗り替わるとされている。一方で、成長の継続には各種インフラの早急な整備など多くの課題が存在することもまた確かであり、新興国がその困難を克服できるか危惧する向きもある。しかし歴史を振り返ると、新興国の人々が驚くべき勇気・智略を示して国難を乗り越え、その国・民族としての潜在力の高さを内外に知らしめた例が散見される。その代表例として、ベトナムとインドネシアの順にそれぞれの「元寇」の歴史を紹介し、両国を含む新興国の「底力」について簡単に述べたい。

13世紀後半、ベトナムを含むインドシナ半島方面は強大な元の圧力に晒されていた。当時、ベトナムは陳(チャン)朝の時代であったが、1276年には元のフビライがベトナムに対して国王の来朝など六か条の要求を突きつけたほか、1279年には南宋が滅亡し、ベトナムは元の脅威を直接受けることになった(参考:日本の文永、弘安の役は各々1274、1281年)。これに対してベトナムは1283年、王族の一人で興道王に封じられていた陳国峻(チャン・クォック・トァン)に全軍の総指揮を任せ、兵を訓練し武器・戦艦を作らせて防備を固めた。

1257年、1285年と既に過去二度のベトナム遠征に失敗していた元のフビライは1287年12月、30万の兵で三たびベトナムに侵攻した。もともと元は日本への第三次遠征を企図していたが、それを中止してベトナム遠征を優先したのである。元軍はかつての侵攻で補給に難儀した体験を踏まえ、戦艦数百隻を建造し糧食を輸送した。元軍の攻撃を避けてベトナム王は首都を脱出、住民たちも食糧を隠して逃散した。

翌1288年に入り、元の輸送船団が食料と武器を満載して現地に到着したが、ここで大きな転機が訪れる。ベトナム側の伏兵がこの船団の襲撃に成功し、多くの船を焼いた上に大量の食糧と武器を奪ったのである。この結果兵站線の崩壊した元軍は、陸上でもベトナム側の反撃にてこずり、雨季を前にして風土病の恐れもあって、陸海に分かれての撤退を余儀なくされる。

陳国峻はこの機を逃さず、1288年3月、元軍の陸の退路に自軍を伏せたうえ、元の船団の停泊する白藤(バクダン)江(世界自然遺産のハロン湾に注ぐ河で、ハイフォンの北方クァンイェン付近)に向かった。陳国峻は干潮の間に杭を白藤江に立てておき、満潮を見計らって元軍に戦いを挑んだ。元の応戦を待ってベトナム艦艇は逃げ出し、元軍艦艇を誘い出す。すると潮が退き始め、元の船は杭に引っ掛かって動けなくなった。ここでベトナム軍が総攻撃に移り、奮戦の末に元軍を大破。戦艦100隻を沈め400隻を捕獲、元兵の多数が水死したうえ大勢の将軍が捕虜となったとされる。陸路の元軍も国境近くでベトナム側の伏兵に遭い多くの損害を蒙った。これ以後、陳国峻は陳興道(チャン・フン・ダオ)と呼ばれ、救国の英雄として今でもベトナム全土の町の主要な通りの名称となっている。


一方、13世紀末のインドネシアでは、ジャワに成立した強大なシンガサリ王国がバリ、スマトラからマレー半島にまで勢力を拡大していた。そこへ、東南アジアに食指を伸ばしつつあった元のフビライから、朝貢を求める使者が度々訪れるようになる。シンガサリ王クルタナガラはそれを拒み、1289年には使者に刺青をして追い返した。フビライはこれに怒り、1292年に討伐軍として2万の兵と500艘以上の船団からなるジャワ遠征軍を出発させた。

しかしその同じ1292年、ジャワでは意外な事変が発生した。かつてシンガサリ王国に滅ぼされたクディリ王国の末裔がジャワで反乱を起こしたのである。クディリ軍は、シンガサリの主力が元軍に対する防備で出払っていること知っていた。更にクディリ軍は巧みな陽動作戦を展開し、二手に分けた軍のうち陽動部隊には北方の主要道を進ませ、南方の間道から別働隊を進ませた。これに対してクルタナガラは北方から来る反乱軍の迎撃を女婿のラデン・ヴィジャヤに任せ、自らは宗教儀礼にふけっていたのである。結果、クディリの別働隊は王都の奇襲に成功し、強盛を誇ったシンガサリ王国は元軍の襲来を待たずにあっけなく滅んだ。孤立したラデン・ヴィジャヤはクディリに一旦降伏する。

そこへ1293年、元のシンガサリ討伐軍が事情を知らぬままジャワに到着した。ラデン・ヴィジャヤはこれを奇貨とし、本来倒すべきはクディリであると元軍を説得、同盟を結んでクディリを攻め滅ぼした。元軍は戦勝に酔い、これで故国へ帰れると安堵していたところ、なんと今度は同盟していたはずのラデン・ヴィジャヤ軍がいきなり元軍に襲いかかった。元軍はこの不意討ちで大損害を受け、ジャワを放棄して急ぎ帰国していった。こうして故国の仇を討ち、元軍の排除にも成功したラデン・ヴィジャヤは1294年に即位し、インドネシア史上最強とされるマジャパヒト王国の開祖となったのである。


この2つの例のように、多くの国には勇猛で賢明な英雄の下に勢威をふるった輝かしい時代がある。軍事か経済かの分野の違いはあるものの、有能な指導者の下に団結して大事を成し遂げた先例という意味で、歴史や伝承上の栄華の足跡は、新興国が諸課題を克服するにあたっての「底力」として何らかの示唆と自信を与えると思われる。新興国の成長という現代の歴史物語の展開に、それぞれの国の先人の遺産がどのように投影されるのか、そこに現れる各国の「底力」に今後注目していきたい。


参考文献:
 小倉貞夫著「物語ベトナムの歴史 ‐一億人国家のダイナミズム‐」 中公新書
 岩波講座 「東南アジア史 2 ‐東南アジア古代国家の成立と展開‐」 岩波書店


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