第16回 中国は、長期の視野の下で、安定的な発展モデルを考えることが必要

ゲスト 崔 保国氏 清華大学副院長

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対談動画(大和スペシャリストレポート)

今、世界は成長の危機に直面している。100年前には目指すべき発展モデルがあったが、今後の100年を展望するとき、そうしたモデルは存在していない。中国は、自身の知恵を絞り、安定的かつ長期の経済及び社会の発展モデルを考える必要がある。
中国は一人当たりの資源量がきわめて小さいため、次代の発展を支えるのにどのようにしていくのかが一番の問題となっている。これをうまく解決できないと、世界はいつまでも爆弾を抱えているのと同じ状態になる。
問題の解をみつけるためには、今後100年といった長い視野で、過去を振り返って反省し、未来を考えていくということが必要である。

川村

今回の三人行は北京からです。清華大学のマスコミ学院副院長である崔保国先生をお迎えしています。実は、場所も清華大学のマスコミ学院の中にあるスタジオで収録しています。崔先生は、中国では著名なマスコミ関係者で、またマスコミ学というアカデミズムの中でもその旗手として期待される有名な先生ですが、初めに簡単な自己紹介をお願いいたします。

私は、現在清華大学のマスコミ学院の教授兼副院長を務めています。コミュニケーション論とメディア論、それにメディア産業の研究をしています。私は、20年程前の1990年に、日本の東北大学の大学院に留学し、当時創設された大学院の情報科学研究科の一期生として、マスターとドクターの学位をとりました。


清華大学は、中国有数の、かつ世界でも有名な大学です。先生は、その中の重要なセクションであるマスコミ学院の舵を取られている一方で、高名な学者でもあります。現在の研究分野や、取り組まれているプロジェクトなどをご紹介ください。

私が今取り組んでいる分野は、コミュニケーション論とメディア論の理論的な研究です。それともう一つ、メディア産業について、例えばマネジメントといった経営論についての研究があります。日本と縁の深い研究プロジェクトもいくつかあります。一つは、2006年から続いている清華大学と日本経済新聞との共同研究です。そのために、清華大学に清華—日経メディア研究所を作りました。設立時から、その研究所の所長は私が務めています。主な研究テーマは、デジタル時代にメディアはどのような考え方で対応していくのかということです。すなわち、新聞やテレビ局が、デジタル化の波に洗われる業務やいろいろな変化に対し、どのように時代の波を乗り越えていくのかというものです。もう一つは、日本経済新聞ではデータベースサービスが事業の中でかなり大きな分野を占めるようになっていますが、そうしたサービスを運営するノウハウをどのように中国で活かし、広めるのかということです。例えば、日本のユーザーに中国企業のデータベースサービスを提供しようとしても、中国のデータは日本のデータベースのようにはいたっていないのが現状です。また、新たな時代に向かって、データベースを縦横無尽に活用し、経済ジャーナリスト、グローバルなジャーナリストとして、日本語、英語で記事を書ける人材を育成するのも、ここの役割の一つです。


川村

日本と大変縁が深く、さまざまな活動をなさってきた中で、特別なエピソードや思い出話がありましたら伺いたいのですが。


日本では、留学生時代が一番心に深く残っています。私が日本に留学した頃は、中国のすべての若者、あるいは中国人は皆、魯迅先生が日本に留学したことを知っていました。中でも、魯迅先生と藤野先生の深い友情及び恩師としての藤野先生のイメージは、ひろく中国人の間に膾炙していました。私は、魯迅先生が留学した東北大学に留学できたのですが、当時東北大学の片平キャンパスに、藤野先生が魯迅に授業をした教室が残っており、今も文化遺産として保存されています。私の大学院時代の研究室は、藤野先生が授業をした大教室のそばでしたので、毎日その大教室を通って自分の研究室に通いました。藤野先生のような人格者に代表される日本人の優しさやその精神は、中国人の心に印象深く残っていますし、皆尊敬をしています。私の東北大学での指導教官は阿部四郎先生で、修士時代の指導教官は村上先生でした。二人ともすばらしい学者であり人格者であって、藤野先生のように心は優しく、学問には厳しく、本当に尊敬すべき学者として、私自身の心に印象づけられています。その後、私は東北福祉大学に非常勤講師として赴任しました。今も、東北福祉大学の客員教授をしております。東北福祉大学学長の萩野浩基先生もすばらしい学者で、学長ながら衆議院議員、参議院議員も務められた他、僧侶の資格をお持ちで仏教哲学を深く研究されおり、私も影響を受けました。東北福祉大学との交流では、総務局長の大竹榮先生とも社会福祉の日中交流に関するプロジェクトを多く実施しています。

苦労なさった話も多いと思いますので、一部紹介していただきたいのですが。


学生時代は主に日本の学生や学者との交流をしてきましたが、その後、もう一つの経験として、企業を経営したことがあります。大学生活の後にベンチャー企業を創業し、2年くらい経営しました。


東北の仙台でですか。


東京の新橋です。90年代に日本の方と私の仲間で一緒に創業しましたが、石の上にも3年、そのような大変さを十分に味わいました。そのときやりたかったのは、データベースサービスです。自分の夢として、日本の帝国データバンク、あるいは日経のデータベースサービスのようなものを提供したかったのです。しかし、それは夢に過ぎず、実際にそのようなサービスを提供できるようになったのは、10年後です。私が日経との研究をスタートした後に、毎年何億円と投じてそうしたサービスを育成していきましたが、我々の力のみではそういうビジネスには全然対応できませんでした。ベンチャー企業で提供したかったのも、日中の経済データベースサービスですが、この計画は失敗に終わりました。


川村

マスコミ学院で、日経新聞との共同研究の他に、朝日新聞とも結びつきがあると聞きましたが、その内容をお聞かせください。


朝日新聞とは主に学生の交流からスタートしました。5年前から朝日新聞がスポンサーとして、東大、法政、早稲田と、清華大学、北京大学の学生で学生フォーラムを開催し、日中学生交流をしており、私が中国側を担当しました。また、朝日新聞から毎年研究助成金をいただき、日中関係のテーマで毎年学生から論文を募集していますし、セミナーも開きました。2011年の秋には、東大からの十数名と清華大学からの十数名、併せて三十数名の学生を万里の長城の下にある清華大学のセミナーホールに集め、日本側から東京大学大学院情報学環教授の吉見俊哉先生と、朝日新聞編集局長の西村陽一先生、中国側から私と数人の清華大学の先生が、学生と一緒に3日間泊まり込み、皆の発表を持ち寄り、論文集を出すということを行いました。


川村

崔先生は、日本・中国・西欧という関係の中で、日本が中国を中心としたアジアの文明と、西洋文明との架け橋になっているのではないかと言われていたと思うのですが、その点を説明していただけますか。


過去100年間、日本は中国文明と西洋文明との架け橋として、近代化の経験と情報を収集し、伝えることで中国に大きな影響を与えてきました。中国の学者と民間の認識は、古代においては日本が中国から勉強する、近代においては中国が日本から勉強する、互いの交流によって2つの国が互いに成長してきたというのが基本的な考え方だと思います。近代では、日中戦争のような不幸な歴史はありましたが、長い歴史の視野からみれば、その不幸な歴史の時期は非常に短く、数十年間だけです。およそ2000年間を通じて、文明をつないだコミュニケーションにより互いに発展してきたのが、中日間の歴史だと思います。近代の100年の歴史、長くとって300年の歴史の基本的な枠組みは、西洋文明が東洋文明に挑戦するという歴史でした。
西洋文明はイギリスの産業革命を代表として、工業・生産の拡大が消費を刺激し、消費の増加がさらに生産を刺激するという拡張型の基本モデルで発展してきました。東洋にとって近代の100年の歴史は、西洋文明のモデルで東洋文明を改造しようとしたものであったと思います。しかし、今からみれば、西洋文明は本当の文明ではなく、実は病んだものであったのです。なぜならば、大量の資源を使用して、大量生産をし、大量の消費を促すという、これは消費ではなく浪費ですが、そういうモデルです。今では、浪費して大量生産するという悪循環になっています。資源である石炭と石油を使い尽くし、それだけではなく環境を汚染し、人間を疲弊させ、国と国との間では戦争や競争を激しくしています。だから、300年の西洋文明の歴史は300年の病める歴史なのです。一方、農業文明中心の東洋文明は、環境に優しい、人間に優しい、地球に相応しい発展モデルだと思います。近代の100年で、日本は中国より先に西洋の近代化モデルを展開し、先進国入りしました。中国は、その後に西洋文明のモデルに無理やり組み込まれるかたちで発展を促されてきましたが、改革開放後に工業革命と西洋式の資本主義モデルにより、この30年間の発展のスピードは急速なものとなりました。ただし、こうした発展モデルがいいのか悪いのかを判断するのは早すぎます。中国の人口は約14億人で、もし人口全体が本当に西洋式の消費のレベルに達すれば、世界中の食糧、世界中の石油は全部消えてしまいます。西洋の社会発展モデルは、中国には適当でありません。したがって、西洋の近代化と工業文明の発展モデルの優秀な部分を取り入れた、中国自身の社会と経済の発展モデルを考えなければならず、未来の100年を見通して考えていかなければならないのです。
私は、日本の歴史には詳しくはないのですが、日本の発展の礎を作ったのは、明治維新という時代にあったと思います。大久保利通、福沢諭吉、伊藤博文に代表される当時のエリート層が、100年の大計として戦略を決め、実行していったのです。西洋諸国の視察あるいは留学を通じ、大久保や伊藤は西洋文明の発展の条件を探り、理解していきました。西洋諸国が強くなった要因の一つは、船の文明です。船と武器は強くしなければならない、強い軍艦を作らなければならない、それが一つです。二つ目は、工業化です。農業国から脱皮し、工業を発展させなければなりません。三つ目は、憲法です。議会と憲法という民主主義のシステムを導入しなければ、資本主義の経済を発展させることはできず、その国も強くすることはできません。そして、最後の一つとして日本のエリートが発見したのは、西洋諸国の列強化は植民地を作ったことによるということです。イギリスはインドを、ポルトガルはブラジルを、スペインは中南米を植民地としました。日本が列強に伍していくには、植民地を持つことが必要だと理解したのです。当時、列強以外の国の選択肢は、列強に囲まれながら独立を維持するか、植民地となるかの2つしかありませんでした。日本の選択は、独立を維持した上で植民地獲得による富国化の道でした。19世紀から20世紀初頭の列強の論理とは、そういう発展のロジックだったのです。こうした帝国主義的なロジックが横行する中で、第一次世界大戦、第二次世界大戦が惹き起こされました。そして、第二次大戦が終わる頃には、西洋も東洋も皆帝国主義の反省の上に立ち、植民地は民族独立の波に乗って独立が進んでいきます。


川村

約200年前の1820年のGDP推計では、中国は世界のGDPの32%を占めていました。ヨーロッパは全部合わせても26%、アメリカは1.2%でした。日本は約2%です。その後、中国のシェアは32%から20%、10%と激減し、文化大革命の頃には5%に過ぎなくなっていました。それが、今また10%を上回ってきています。再び中国が発展してくる時期に当たり、私は、日本が過去100年の歴史をよく考えると同時に、中国との1000年を超える付き合いの中からいろいろ考えていかなければならないとつくづく思います。

日本と中国の1000年を超える歴史の中で、不幸の歴史は50年しかありません。私がみるに100年前の日本のエリートの選択は、間違いではなかったと思います。その選択は、おそらく賢明なものだったのです。しかし、当時の中国のエリートには、残念なことにそうした考え方がなかったのです。当時の日本のエリートは皆ヨーロッパに留学し、きちんと西洋の学問を勉強してきていましたので、政策決定を担う層にはグローバルな視野がありました。一方、中国の官僚、エリート層には、グローバルな世界観を有する人はほとんどいませんでした。梁啓超や厳復といった世界の思想に目を開いていた人はいましたが、その説は受け入れられるにいたらず、残念ながら中国は悲惨な歴史過程に入っていきました。当時権力を握っていたのは、西太后のような古い、保守的な考え方の人で、時代の変化に対応することはできなかったことが、悲惨な歴史の原因となったのです。


川村

やはりリーダーの質、能力が問われるわけですね。


リーダーの能力とリーダーのグローバルな視野、世界観が重要です。グローバルの時代になったのに、グローバルな視野を持っている人材がおらず、中国は100年前に、ここで失敗しました。その失敗の後、グローバルな視野、歴史観を持ったリーダーとして現れたのが周恩来です。彼は、中国を正しい方向に導きました。文化大革命の時代に伝統文化と西洋文明とが否定され、視野が狭まったのですが、鄧小平が改革開放を進め、再びグローバル化という世界の流れに乗ることができました。鄧小平の政治路線の基本は、周恩来と同じです。今、新たな100年がスタートしていますが、開始早々世界は危機に見舞われています。100年前には、日本にとってきちんとした発展モデルがありました。西洋列強モデルとその経験を勉強すれば、強い国は作れたのです。しかし、新たな100年にはそのようなモデルはありません。したがって、中国のような大きな国は、どのような国を目指すのか、またどうしたら安定したかつ長期の発展モデルを作れるのかを自分で考えていかなければなりません。アメリカのモデルは、中国には絶対適用できませんし、日本のモデルも、ヨーロッパのようなモデルもだめです。中国はどのような発展をしていくのかを、中国人が自分自身の知恵を絞って考えなければならないのです。


川村

今の指摘はものすごく大事だと思います。というのは、中国の面積とアメリカの面積はだいたい同じなのに対し、中国はアメリカの5、6倍の人口を抱えています。逆にいうと、アメリカ人は自分の土地を中国人の6倍使えるわけです。アメリカは、一人当たりで中国の6倍の土地を持っているわけですから、資源も6倍あります。だから国の中の資源だけで豊かになれました。中国は、一人当たりで使える資源がアメリカよりきわめて少なくなるので、どのようにして次代の発展を支えていくのか、これが世界にとって大きなテーマとなっていくはずです。


これは、ノーベル賞をとった経済学者でも答えることはできませんね。世界で一番大きな問題です。うまく解決できなければ、つねに爆弾を抱えているのと同じことになります。問題の解をみつけるために、中国の学者は今後100年といった長い視野で、自分の学問と研究を考えていかなければなりません。そのために、私は100年塾を作ったのです。100年塾では、過去の100年をきちんと振り返って反省し、その上で未来の100年を考えていくということを目的としています。
最後に、もう一つ述べておきたいと思います。今、新たな社会と経済の発展モデルを追求する研究がスタートしています。ただし、実際には経済発展のモデルの裏側には、政治的なモデル、政治体制があります。また、こうした政治体制や経済発展モデルの基層には、文化が厳と存在しています。文化というのは文明の基礎要素で、その中身には核心的なものが四つあります。人種、言葉、生活スタイル、もう一つは価値観です。価値観とは、簡単に言うと二つの問題に答えれば、それが価値観になります。一つは、人間はどこから来たのかということ、二つ目は人間は死んだ後にどこに行くのかということです。西洋文明では、人間は神が作り、天と地、宇宙も地球も全部神が作ったことになっています。死後は、天国か地獄に行くとされています。これらを論理的に理論付けていくことにより、いろいろな価値観がでてくるのです。中国人も日本人も多くは、こうしたキリスト教に基づく西洋文明の価値観には馴染むことはできません。そこで、東洋の価値観とは何かと考えたとき、東洋文明の中にその答えをみつけることができます。書物をたくさん読み、私は基本的な価値観を持つにいたりました。
天地、宇宙、地球はどうして生じたのか、人間はどこから来たのか、人間は死んだ後どこに行くのか、その答えを導き出す学問は四つあると考えています。一つ目は易、二番目は道教、三番目は仏教、四番目は儒教です。易は、天と地がどのように変化してきたかを述べています。天と地は、陰と陽に分けられ、地にある万物は、木、火、土、金、水の元素(五行)からなると説明しています。宇宙がどうして生じたのかを語るのは、道教です。道が一を生み、一が二を生み、二が三を生み、三が万物を生むという表現、陰と陽と一から万物が生じるというのは、ビッグバン理論と発想が非常に似ています。仏教は、万物と人間の心や自然との関係を説明し、悟りへとつなげています。悟ることは、天、地、人が分かるということです。儒教は、人間はどのように生きるべきかという倫理や礼儀について、親子兄弟、友人、あるいは国家間といった関係にそれを適用していくもので、政治、行政につながります。東洋的な文明の核心には、これらの四つの学問が包摂されているのです。

川村

現代の話から古代の話、歴史の話、経済の話、多岐にわたって本当にありがとうございました。


ありがとうございました。


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