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	<title>アジア太平洋三人行 | 大和総研</title>
		<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/index.html</link>
		<language>ja</language>

		<item>
			<title>第17回 人民元の国際化を乗り越え、中国は資金供給国としての役割の認識が必要に</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/17_20120926.html</link>
			<pubDate>Wed, 26 Sep 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        


川村
本日のゲストには、国際協力銀行の渡辺博史副総裁をお招きしました。渡辺副総裁は、財務省では財務官としてアジアを中心に日本政府の活動を支えるという重責を果たしてこられ、現在は勉強会や大学での講義等を通じて、国際金融の知識の啓発・普及活動にも力を注がれています。最初に、国際協力銀行の概要と中国関連の業務等についてお話頂けますか。


渡辺
昔は日本輸出入銀行という名前だったのですが、1999年に国際協力銀行（JBIC）として発足しました。仕事は、大きく分けて四つあります。一つは輸出入銀行の業務から派生しており、輸出面で、日本企業の国際競争力を維持し、日本のプロダクトや技術を海外に展開するための支援をしています。輸入面でも、日本に必要な資源とエネルギーの安定的な供給をどのようにして確保するかということが二番目です。もう二つは最近付け加わったのですが、三番目は、アジア等で金融市場がうまくワークしないときに、官の立場でなく銀行の立場で支援をすることです。四番目は環境問題への対応です。環境に優しいプロジェクトにはそれなりにコストが必要で、そのファイナンスを民間だけで賄うのは難しいため、これを支援しています。中国との関係では、日本企業の製品や技術を中国に輸出していくことがメインの仕事だったのが、最近では、環境問題への対応として、新しい環境技術を日本あるいは日本以外のところから導入するなど、中国の人々の生活を向上させるための支援が中心になってきています。
川村
中国との関係で興味深いと思ったのは、2011年12月の日中首脳会談の際に、金融における日中協力の合意の中で、中国本土での外国企業による人民元建て債券、サムライ債の中国版であるパンダ債をJBICが積極的に発行することを打ち出したことです。
渡辺
中国に限らず、企業が海外に進出して現地で仕事をするときに現地通貨が必要になることがあります。ハードカレンシーであるドル、ユーロあるいは円を送金しても、それを現地通貨に替えなければならず、通貨のミスマッチが発生します。現地で仕事をしている立場からは、現地通貨でファイナンスしたいという要望が多いのです。中国の場合、人民元を海外の人や企業が自由に使える仕組みでなかったのですが、これからは広い意味での人民元の国際化を進めることになると思います。その一環として、まず中国の中で仕事をする海外の企業が人民元を使いやすくなるように、最初に公的機関である国際協力銀行がファイナンスをし、調達した資金を現地で貸し出すという仕組みを考えています。
薛
渡辺副総裁は、国際派の官僚として知られていました。若い時代の国際関係での経験や活躍、中国との縁について伺えますか。
渡辺
私は、国内で税制関係の仕事が長く、国際関係に携わったといえるのは2000年以降です。その間、アジア地域間での金融協力や、財務官時代にはグローバル・インバランス問題を中心に仕事をしてきました。中国と縁が生じたのは、90年代前半に税制のあり方について北京市税務局や国家税務総局で、日本の税制や、日本を含む欧米の国際課税、移転価格税制の説明をしていたことからです。国際関係に移ってからは、地域金融協力を進める中で、ASEANと仕事をする前に、まず主要な担い手となる日中ですり合わせをしましょうということで、かなりの頻度で北京や上海を訪問していました。
川村
財務官といえば、国際金融関係で日本を代表する行政官のトップです。財務官時代の思い出深い話や、今だから言えるといったエピソードがありましたら、お聞かせください。



渡辺
当時、世界的に議論になっていたのはグローバル・インバランスの問題です。アメリカは米中の貿易関係を問題視していましたが、互いに立場が違う上に、本来特定の国の話ではないので、米中だけの交渉では議論は深まっていきません。そこで、IMFが中心になり他の地域も一緒に考えようという機運が高まり、アメリカ、中国、日本にヨーロッパを代表したグループ、それとサウジアラビアの五地域の代表が議論をして、ようやく方向感が出てきました。例えば、中国が人民元の国際化や、内需中心型の経済政策への切り替えを進めること。アメリカは、海外からのファイナンスができないと経済が回らなくなるため、財政赤字の問題に積極的に取り組んでいくこと。資金がうまく回っているときは問題なくとも、資金の流れがぎくしゃくし始めるとそれは弱みにしかならないからです。そうした議論の中で、米中のみならず我々も含め各国のこの問題に対する意識が深まっていきました。こうした議論に参画できたというのが強く記憶に残っています。もう一つは、さまざまな国際機関が1945年を契機に設立されていたことから、組織における発言権がヨーロッパに偏重したままになっていた問題です。アジアやラテンアメリカの国からは、現状の発言権は経済の実態と乖離している、IMFは実態に合わせた発言権の調整をするべきではないかという議論が出てきていたのです。この議論は、1980年代からあったのですが動きがないままでした。それが、私が財務官になった直後に、ジョン・テイラー米財務省次官にやはり調整の必要があると直接相談したことから動き始め、まず四カ国だけを先行してIMFでの発言権シェアを引き上げました。中国、韓国、メキシコ、トルコの四カ国です。これが、その後の発言権の全面的な調整にもつながっていったことから、いい経験をしたものと思っています。


川村
今の話は5、6年前ですね。そこからまた5、6年の間に、国際金融の世界は大きく動いており、目が離せません。



薛
アジア通貨危機における経験を伺えますか。例えば、当時の日本政府の対応や、IMFの支援対応としてのいわゆるワシントン・コンセンサスなどについてお願いします。


渡辺
1997—1998年にアジア通貨危機と日本国内の金融危機があったのですが、それをどのように捉えるべきかについて、見直しが行われています。アメリカの学者は日本が変だとか、日本が未熟だから15年も20年も低迷していると悪口を言っていました。しかし、アメリカの経済学者のクルーグマン教授とフィナンシャルタイムズ紙の著名なコラムニストであるマーティン・ウルフ氏が最近対談しているのを読みますと、日本が愚かだったからそうなったのだと当時は言っていたが、アメリカの2008年のリーマン・ショックの後始末や、現在進行形のヨーロッパの問題を見ていると、我々も同じ問題を抱えているのだという話をしています。当時、日本が最善の措置をとったとまでは言えませんが、経済を傷めないで何ができるかということからいうと、我々がとった選択肢も決して間違ってはいなかったと思います。1970年代、1980年代に繰り返しあったラテンアメリカの危機は、返済不能な債務を負うというインソルベンシーの危機だったのですが、アジア通貨危機はそうではなく、流動性の問題でした。しかし、当時は必ずしもその認識がなかったため、ラテンアメリカの処方箋をそのままアジアに適用してしまうという、ある意味でIMFが誤りを犯したわけです。それによりかえって混乱が起こりました。ただし、その後にアジアの国々は危機対応を進め、IMFからの資金も早期に返しています。この経験を踏まえ、地域ごとにセーフティネットを備えることが必要だとの機運が熟し、2000年5月にチェンマイ・イニシアティブがASEAN10カ国と日中韓との間で合意されました。前世紀末には、そうした地域ごとに支援の枠組みを構築することについて、アメリカとIMFは必ずしも賛成しませんでしたし、中国も1999年まではやや後ろ向きでした。ただし、これだけの貯蓄が存在するアジア地域で資金が不足するというのはどこかおかしいのであって、それを解消するために協力しようと動いて、今のシステムができています。2007、2008年には、IMFも地域間の協力、支援によって、地域金融システムの維持、ある国の財政、経済問題を助けることを認めるようになり、それが今のヨーロッパで活かされています。ですから、日本なりアジアが地域間の支援の枠組みを戦略的、意図的に作ったかどうかは別にしても、結果として世界全体の金融システムの安定に貢献する一つの先例を作ったと思っています。
川村
当時、宮沢構想やアジア通貨基金（AMF）構想にアメリカが強烈に反対しましたし、中国もネガティブな態度でした。
渡辺
私は1998年から2001年の間、宮沢大蔵大臣秘書官という立場でしたので、いわば現場にいたのです。宮沢構想というのは、途上国の資金ニーズを賄うには、世界の資金の流れを大きくしないといけない、そのためには政府資金だけでなく民間の資金も一緒に動かさないといけないという考えに基づいています。ODAの供与だけでなくて、ある程度金利が高い民間の資金も一緒に含めてファイナンシングしていくというものでした。当時はまだ、ヨーロッパは贈与的な資金協力の増強についてあまり違和感を持っていなかったのですが、今は世界中が財政赤字を抱え、ODAを出すのは非常に難しくなっています。それを乗り越えるために、官が何らかの保証をすることによって民間の資金を動員することが必要となってきています。その萌芽がまさに1997年頃にあるのです。14、15年が経ちますが、そうした考えは今も活かされていますし、今後さらに重要になってくるという気がします。
川村
アジア通貨危機後の金融協力の一つに、アジア・ボンド・マーケット・イニシアティブ（ABMI）がありますが、これには渡辺副総裁も関係されています。最近、例えばアジア・ボンドラインや格付けとか、発行実績も含め成果が上がってきていると思いますが、当時、それをリードしていく立場として苦労があったのではないでしょうか。



渡辺
まずアジア通貨危機の反省があります。アジア自体にお金がないわけではないのに、それにもかかわらずお金が回らなかったことから、アジアの中にある資金をまずアジアで使えるようにしようと考えました。アジアの金融市場では銀行が非常に優勢ですので、銀行貸出に回らず国内で使いきれずに余った資金はウォール街やシティへ流れて、それがアジアに還流してくるのです。この過程で、本来長期の資金であったはずなのに、それが銀行をぐるぐる回っていく中で短い満期の資金になっています。また、本来現地通貨であったものが、いつの間にかドルやユーロになってしまい、これをもう一度現地通貨に直さなければなりません。つまり、「為替」と「満期」という二つのミスマッチがあるのです。この状況の解消に向けては、わりあい早くASEAN＋3で、アジアに長期の金融インスツルメントである債券市場を作ることが合意できました。債券で、5年、7年あるいは10年と長い資金を調達できれば、ウォール街やシティを迂回しなくてもアジアでアジアの資金を使えるようになるとの論理です。ここまでは各国の財務省、中央銀行で早期に合意できましたが、それぞれの国に厳として存在する為替規制、税制という制約を乗り越えるためにはかなり時間がかかりました。実例は出てきていますが、当初想定していたよりも少し遅れていると感じています。最終的には、アジアの民間企業や銀行が自国あるいは他国の市場で現地通貨建ての債券を発行するということを実現し、それによって迂回路を通らずに資金を流せるようにしようとしましたが、まだ民間企業が他の国で債券を発行するにはいたっていません。ABMIのアイデアの一つには、発行される債券に保証を付けるというものがあります。どこの誰ともわからない企業の債券なんか買えないという投資家が多いとすると、誰かが保証を付けてあげればいいわけです。5月からCGIF（信用保証・投資ファシリティ）が保証業務を開始していますが、アジア域内の民間企業が債券を発行するときにそれへの保証を行うことで、長期の資金調達をアジア域内で完結させるとの目標へ向けての一歩を踏み出したものと思います。それから、格付けについては、アジアの場合には企業より国の格付けの方が常に上となり、これがいわばカントリー・シーリングとなっています。一方、日本では某自動車会社の格付けが日本国より上ですし、他にも民間企業の方が国より上位というところが多くありますが、途上国というフィルターを通ると、国が一番上でその下に企業ということになってしまいます。しかし、最近の各国の財政事情を見ていくと、国の財務が民間よりも常にいいとは限らず、それを是正していくことも必要です。


薛
ASEANの域内金融協力と中国との関係をどう考えられていますか。また、中国の立ち位置は今後どうあるべきでしょうか。
渡辺
1997、1998年のAMF構想には、アメリカとIMFのみならず、中国も消極的でした。しかし、その後の東南アジアの不安定さを見て中国も考えを改めたことから、1999年の終わり頃から日本、中国、韓国が一緒の方向に動きました。その結果、2000年5月にチェンマイでASEAN＋3の間で合意が成立し、流動性の供給メカニズムを作ったのです。当時のチェンマイ・イニシアティブは、二国間の資金融通ネットワークであって、機動的に動くことができる組織ではありませんでした。それを、地域の組織体として動けるようにマルチ化の方向に切り替えていこうと進めてきたのですが、これについては中国の温家宝首相がリーダーシップをとっていたというのが私の認識です。チェンマイ・イニシアティブは、流動性の供給を目的としていますから、十分な外貨準備を持っている日本と中国はその意味で地域への貢献という面で非常にいい立場にあるのではないかと思います。ただし、債券の発行や流通については中国の中で制約がありますから、徐々に中国に自由化を進めていってもらうことが必要ではないかと思っています。また、日本も中国も国内に貯蓄を多く蓄積していますので、これを活用してアジアや世界に向けて資金供給をしていくという意味で、大きな役割を果たせる立場にあります。そういう貢献を中国は行うことができますし、日本としては一緒に進めていこうと考えています。
川村
今、ユーロが大変な危機にあり、アメリカも元気がありません。こういう中で期待されるのはアジアだと衆目が一致しています。それが、中国が減速気味でインドも足踏みだということになり、欧米のみならずアジア経済についてもやや悲観的な見方が強くなってきています。5年、10年という中期のタームで、中国とASEANの経済について展望をお聞かせください。



渡辺
リーマン・ショック後、2009年は先進国がほとんどマイナス成長となり、それをカバーしたのがアジアを中心とする新興国でした。それが、新興国も今年、来年と徐々に減速します。中国は10％成長が8％に、インドも9％ぐらいが、7％、5％と落ちていくことになると思います。しかし、いったん景気循環の帰結として落ちた後は、成長ポテンシャルはありますので、適切な政策と地域の協力によって成長を取り戻せるものと思っています。政策の宜しきを得れば、現実味のあるシナリオとして、2050年に世界のGDPの50％をアジアが占めると考えています。今は約30％ですし、アジアの成長寄与度が高くなると、可能性は十分あります。その理由は、人口構成の変化です。ヨーロッパや日本はほとんど人口が増えませんが、アジアは全体として人口が増えていきますから、それが購買力となって経済が伸びていきます。ただし、いろいろな資源制約が出てきますから、物価上昇が成長の軛となりかねず、これにどう対応していくかは問題です。こうした制約を回避するには、中国が国内での資源配分の調整を進めることと貿易の主要なパートナーである日本、韓国やASEANとどう分業していくかが課題となると思います。特に、中国にとっては沿岸部と内陸部との格差の是正や分業体制の見直しにより、効率的な経済の維持が必要となります。さらに、アジア全体でも相対的な比較優位での切り分けが行われるなど、各国経済の効率的運営が求められます。また、やや長い目で見ると、中国の人口はほぼ安定期に入ります。さらに、日本や韓国のように人口が漸減する時期に入っていくとすると、中国がそれに対応してどのように政策運営をしていくのかを明確化してもらい、その政策に日本、韓国やASEANがどう協力できるかという議論をすることが必要になってくると考えています。


薛
日本はアジアの一員として、中国、韓国やASEANと緊密な経済関係にありますが、中長期的にどのような関係を築いていくべきと展望されていますか。
渡辺
人口が多いということは、消費がそこにあるわけですから、その消費を満足させるような生産を行うことになります。これまで、アジアは大量に生産をしてきたのですが、消費はそのほとんどを北米と欧州に任せてきました。それがグローバル・インバランスにつながったのです。45億人なり50億人なりのアジアの人たちが、自らが作ったものを自らが消費するかたちに変えていくことが必要だと思います。今までアジアは生産地、欧米が消費地という構図だったのですが、消費地としてのアジアへのシフトが生じてくるのですから、それを念頭に生産を考えねばなりません。欧米向け製品の価格帯ではなく、まだ所得水準が低いアジアの人たちが買えるような価格帯の商品を生産していく企業戦略や、各国政府が商品の普及を促進すべき産業分野に資金を有効的に投入していくようなことも必要です。
川村
日本、中国、韓国やASEANの協力関係は着実に進んでいますが、一方でアジアバスケット通貨構想はずいぶん前から唱えられているにもかかわらず、実現には依然として距離があります。そうした点も踏まえ、今後のアジア域内での金融協力のあり方について考えをお聞かせください。
渡辺
金融面では、ABMIの中心になっている「債券をどうアジアに根付かせていくか」ということが重要です。ABMIはまだ公的な機関が中心となっていますが、最終的には、民間企業が債券でファイナンスを行うだけではなく、公的な年金基金やさらに一般の投資家が債券を買うというようにしなければなりません。それには、一般投資家に債券を流していくチャネルを作ることも必要です。それから通貨の問題ですが、経済の発展段階が違う中での通貨の統合は難しいという意見が多数でしたし、サンプルであるユーロの現状を見れば、一つの通貨へという方向への動きはしばらくないだろうという気がします。ただし、通貨のボラティリティが非常に大きいことは貿易には不都合です。例えば、マレーシアとタイの間の取引もドル建てやドルを介在させたものでしたが、それでは域外の通貨であるドルの価値如何によって取引額が大きく変動してしまいます。そのため、何らかのリファレンスを作ることに、ある程度協力があってもいいのではないかと思います。いずれにせよ資金をなるべく円滑に動かすためには、金融取引にかかわる障壁を低くしていき、全体として貯蓄超過であるアジアの中で資金の流れをうまく調整していくことがこれからの課題となります。今は何でも官が先行して実行していますが、5年、10年をかけて民間に徐々にイニシアティブを移していくのが、これからの姿ではないでしょうか。
薛
人民元の国際化についてはどうでしょうか。
渡辺
人民元の国際化については、GDPが世界第二位となった中国が、通貨を今のまま他から分離してマネージしていくことは難しいと思います。通貨は、経済を動かすときの一つのバッファーとなっていますから、通貨を動かさないでいると結局他の経済政策に皺寄せが生じてきます。それを避けるには、経済実態を通貨がある程度反映できる状態にしていくことが必要であり、それが国際化なのです。そのためには、三つのステップが必要です。一つはコンバーティビリティ（交換性）の回復、つまり誰でもどこでも使えるようにすること。二つ目は、国境を越えてお金が出入りする資本流出入規制の自由化、あるいは緩和。最後はフロート（変動制）への移行。完全なフロートに移行するか、現行のバスケット連動をより純化させることで、通貨の価値がマーケットで決まるようにすることです。この三つのステップを中国が踏むことによって、ある意味で人民元の国際化ができるわけですが、私の認識では、中国はまだ一番目と二番目の間ぐらいのところで止まっており、これを乗り越えるにはしばらく時間がかかるだろうと思います。為替を動かさないとすると、インフレが生じた場合に金利を高くして通貨供給量を調整しようとしても、通貨調整がないことから高金利による通貨高を期待した資金が流入します。このため、通貨供給量の調整がうまくいかず、引締め効果が限られることになります。つまり、金融政策の運営が非常に難しくなりますし、それは経済政策、財政政策において採用しうる手段を少なくすることにもつながります。人民元の国際化は不可避だと思いますので、後は自由化のスピードをどう調節していくかです。あまり遅らせるとその反作用も強くなり、急な改革を迫られる可能性が出てくる気もします。
川村



国際金融でいうトリレンマで、放置しておくわけにはいかないということですね。


渡辺
人民元の国際化は中国にとっていいことであって、アメリカが切上げろと言っているから切上げるという問題ではないと中国も理解しているでしょうし、またそう理解してくださいと言っています。一方で、アメリカにも、人民元を3割とか4割切上げろと言っても、経済構造が違うし、貿易財と非貿易財のウエイトも違う中で、単に対中貿易赤字をゼロにするためにとして言っているのなら、いつまでも赤字はなくならないかもしれないと言っています。円は1ドル360円が80円になりましたが、アメリカは日本に対して依然貿易赤字を抱えており、為替ですべてが調整できるものではないのです。各国の経済実態に合わせて何ができるかを見ていくことが必要であって、中国は欧米に比べ一段階前の発展段階にあることを認識し、中国に正しい方向に動いてもらうという議論をしなければなりません。何割調整しろという議論をすること自体が不毛ではないかと、アメリカに対しては言っているのですがね。
川村
最後に、日本と中国の金融協力の今後のあり方について、意見を伺えればと思います。
渡辺
貯蓄の潤沢さで日中は似たような立場にありますが、日本の場合は、1980年代以降資本移動に制約がなくなり、世界全体に対して資金の出し手という地位を占めています。中国は、沿岸部では資金余剰ですが、内陸部では資金不足で西部開発のために海外からの資金を必要としています。これを、今後中国の中で資金を循環させていくことになっていけば、世界全体に対する資金の根源的な出し手の地位を、日本とともに中国が占めることになる時期がくると思っています。JBICがパンダ債を出す、ドルを介さずに人民元と円の直接取引を行うなど、資金移動の自由化に向けた動きを積み重ねていくことが重要です。日中というこれだけ大きな経済が隣国として並立しているわけですから、それを一つにグルーピングすることで、世界に対していろんなことができますし、またそういう立場にも立つわけです。ただし、それは放っておいて成立するものではありません。政府や民間が互いに意識して進めていくことが必要であり、それがこれからの10年、20年の我々の課題ではないかと感じています。
川村
伺いたいことは多々あるのですが、国際金融の難しい話題を簡潔にお話しくださり、大変勉強になりました。本日はお忙しいところ、ありがとうございました。
渡辺
ありがとうございました。
薛
ありがとうございました。
]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第16回 中国は、長期の視野の下で、安定的な発展モデルを考えることが必要</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/16_20120810.html</link>
			<pubDate>Fri, 10 Aug 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        


川村
今回の三人行は北京からです。清華大学のマスコミ学院副院長である崔保国先生をお迎えしています。実は、場所も清華大学のマスコミ学院の中にあるスタジオで収録しています。崔先生は、中国では著名なマスコミ関係者で、またマスコミ学というアカデミズムの中でもその旗手として期待される有名な先生ですが、初めに簡単な自己紹介をお願いいたします。


崔
私は、現在清華大学のマスコミ学院の教授兼副院長を務めています。コミュニケーション論とメディア論、それにメディア産業の研究をしています。私は、20年程前の1990年に、日本の東北大学の大学院に留学し、当時創設された大学院の情報科学研究科の一期生として、マスターとドクターの学位をとりました。



薛
清華大学は、中国有数の、かつ世界でも有名な大学です。先生は、その中の重要なセクションであるマスコミ学院の舵を取られている一方で、高名な学者でもあります。現在の研究分野や、取り組まれているプロジェクトなどをご紹介ください。


崔
私が今取り組んでいる分野は、コミュニケーション論とメディア論の理論的な研究です。それともう一つ、メディア産業について、例えばマネジメントといった経営論についての研究があります。日本と縁の深い研究プロジェクトもいくつかあります。一つは、2006年から続いている清華大学と日本経済新聞との共同研究です。そのために、清華大学に清華—日経メディア研究所を作りました。設立時から、その研究所の所長は私が務めています。主な研究テーマは、デジタル時代にメディアはどのような考え方で対応していくのかということです。すなわち、新聞やテレビ局が、デジタル化の波に洗われる業務やいろいろな変化に対し、どのように時代の波を乗り越えていくのかというものです。もう一つは、日本経済新聞ではデータベースサービスが事業の中でかなり大きな分野を占めるようになっていますが、そうしたサービスを運営するノウハウをどのように中国で活かし、広めるのかということです。例えば、日本のユーザーに中国企業のデータベースサービスを提供しようとしても、中国のデータは日本のデータベースのようにはいたっていないのが現状です。また、新たな時代に向かって、データベースを縦横無尽に活用し、経済ジャーナリスト、グローバルなジャーナリストとして、日本語、英語で記事を書ける人材を育成するのも、ここの役割の一つです。
川村
日本と大変縁が深く、さまざまな活動をなさってきた中で、特別なエピソードや思い出話がありましたら伺いたいのですが。



崔
日本では、留学生時代が一番心に深く残っています。私が日本に留学した頃は、中国のすべての若者、あるいは中国人は皆、魯迅先生が日本に留学したことを知っていました。中でも、魯迅先生と藤野先生の深い友情及び恩師としての藤野先生のイメージは、ひろく中国人の間に膾炙していました。私は、魯迅先生が留学した東北大学に留学できたのですが、当時東北大学の片平キャンパスに、藤野先生が魯迅に授業をした教室が残っており、今も文化遺産として保存されています。私の大学院時代の研究室は、藤野先生が授業をした大教室のそばでしたので、毎日その大教室を通って自分の研究室に通いました。藤野先生のような人格者に代表される日本人の優しさやその精神は、中国人の心に印象深く残っていますし、皆尊敬をしています。私の東北大学での指導教官は阿部四郎先生で、修士時代の指導教官は村上先生でした。二人ともすばらしい学者であり人格者であって、藤野先生のように心は優しく、学問には厳しく、本当に尊敬すべき学者として、私自身の心に印象づけられています。その後、私は東北福祉大学に非常勤講師として赴任しました。今も、東北福祉大学の客員教授をしております。東北福祉大学学長の萩野浩基先生もすばらしい学者で、学長ながら衆議院議員、参議院議員も務められた他、僧侶の資格をお持ちで仏教哲学を深く研究されおり、私も影響を受けました。東北福祉大学との交流では、総務局長の大竹榮先生とも社会福祉の日中交流に関するプロジェクトを多く実施しています。





薛
苦労なさった話も多いと思いますので、一部紹介していただきたいのですが。
崔
学生時代は主に日本の学生や学者との交流をしてきましたが、その後、もう一つの経験として、企業を経営したことがあります。大学生活の後にベンチャー企業を創業し、2年くらい経営しました。
薛
東北の仙台でですか。
崔
東京の新橋です。90年代に日本の方と私の仲間で一緒に創業しましたが、石の上にも3年、そのような大変さを十分に味わいました。そのときやりたかったのは、データベースサービスです。自分の夢として、日本の帝国データバンク、あるいは日経のデータベースサービスのようなものを提供したかったのです。しかし、それは夢に過ぎず、実際にそのようなサービスを提供できるようになったのは、10年後です。私が日経との研究をスタートした後に、毎年何億円と投じてそうしたサービスを育成していきましたが、我々の力のみではそういうビジネスには全然対応できませんでした。ベンチャー企業で提供したかったのも、日中の経済データベースサービスですが、この計画は失敗に終わりました。
川村
マスコミ学院で、日経新聞との共同研究の他に、朝日新聞とも結びつきがあると聞きましたが、その内容をお聞かせください。
崔
朝日新聞とは主に学生の交流からスタートしました。5年前から朝日新聞がスポンサーとして、東大、法政、早稲田と、清華大学、北京大学の学生で学生フォーラムを開催し、日中学生交流をしており、私が中国側を担当しました。また、朝日新聞から毎年研究助成金をいただき、日中関係のテーマで毎年学生から論文を募集していますし、セミナーも開きました。2011年の秋には、東大からの十数名と清華大学からの十数名、併せて三十数名の学生を万里の長城の下にある清華大学のセミナーホールに集め、日本側から東京大学大学院情報学環教授の吉見俊哉先生と、朝日新聞編集局長の西村陽一先生、中国側から私と数人の清華大学の先生が、学生と一緒に3日間泊まり込み、皆の発表を持ち寄り、論文集を出すということを行いました。
川村
崔先生は、日本・中国・西欧という関係の中で、日本が中国を中心としたアジアの文明と、西洋文明との架け橋になっているのではないかと言われていたと思うのですが、その点を説明していただけますか。



崔
過去100年間、日本は中国文明と西洋文明との架け橋として、近代化の経験と情報を収集し、伝えることで中国に大きな影響を与えてきました。中国の学者と民間の認識は、古代においては日本が中国から勉強する、近代においては中国が日本から勉強する、互いの交流によって2つの国が互いに成長してきたというのが基本的な考え方だと思います。近代では、日中戦争のような不幸な歴史はありましたが、長い歴史の視野からみれば、その不幸な歴史の時期は非常に短く、数十年間だけです。およそ2000年間を通じて、文明をつないだコミュニケーションにより互いに発展してきたのが、中日間の歴史だと思います。近代の100年の歴史、長くとって300年の歴史の基本的な枠組みは、西洋文明が東洋文明に挑戦するという歴史でした。西洋文明はイギリスの産業革命を代表として、工業・生産の拡大が消費を刺激し、消費の増加がさらに生産を刺激するという拡張型の基本モデルで発展してきました。東洋にとって近代の100年の歴史は、西洋文明のモデルで東洋文明を改造しようとしたものであったと思います。しかし、今からみれば、西洋文明は本当の文明ではなく、実は病んだものであったのです。なぜならば、大量の資源を使用して、大量生産をし、大量の消費を促すという、これは消費ではなく浪費ですが、そういうモデルです。今では、浪費して大量生産するという悪循環になっています。資源である石炭と石油を使い尽くし、それだけではなく環境を汚染し、人間を疲弊させ、国と国との間では戦争や競争を激しくしています。だから、300年の西洋文明の歴史は300年の病める歴史なのです。一方、農業文明中心の東洋文明は、環境に優しい、人間に優しい、地球に相応しい発展モデルだと思います。近代の100年で、日本は中国より先に西洋の近代化モデルを展開し、先進国入りしました。中国は、その後に西洋文明のモデルに無理やり組み込まれるかたちで発展を促されてきましたが、改革開放後に工業革命と西洋式の資本主義モデルにより、この30年間の発展のスピードは急速なものとなりました。ただし、こうした発展モデルがいいのか悪いのかを判断するのは早すぎます。中国の人口は約14億人で、もし人口全体が本当に西洋式の消費のレベルに達すれば、世界中の食糧、世界中の石油は全部消えてしまいます。西洋の社会発展モデルは、中国には適当でありません。したがって、西洋の近代化と工業文明の発展モデルの優秀な部分を取り入れた、中国自身の社会と経済の発展モデルを考えなければならず、未来の100年を見通して考えていかなければならないのです。私は、日本の歴史には詳しくはないのですが、日本の発展の礎を作ったのは、明治維新という時代にあったと思います。大久保利通、福沢諭吉、伊藤博文に代表される当時のエリート層が、100年の大計として戦略を決め、実行していったのです。西洋諸国の視察あるいは留学を通じ、大久保や伊藤は西洋文明の発展の条件を探り、理解していきました。西洋諸国が強くなった要因の一つは、船の文明です。船と武器は強くしなければならない、強い軍艦を作らなければならない、それが一つです。二つ目は、工業化です。農業国から脱皮し、工業を発展させなければなりません。三つ目は、憲法です。議会と憲法という民主主義のシステムを導入しなければ、資本主義の経済を発展させることはできず、その国も強くすることはできません。そして、最後の一つとして日本のエリートが発見したのは、西洋諸国の列強化は植民地を作ったことによるということです。イギリスはインドを、ポルトガルはブラジルを、スペインは中南米を植民地としました。日本が列強に伍していくには、植民地を持つことが必要だと理解したのです。当時、列強以外の国の選択肢は、列強に囲まれながら独立を維持するか、植民地となるかの2つしかありませんでした。日本の選択は、独立を維持した上で植民地獲得による富国化の道でした。19世紀から20世紀初頭の列強の論理とは、そういう発展のロジックだったのです。こうした帝国主義的なロジックが横行する中で、第一次世界大戦、第二次世界大戦が惹き起こされました。そして、第二次大戦が終わる頃には、西洋も東洋も皆帝国主義の反省の上に立ち、植民地は民族独立の波に乗って独立が進んでいきます。





川村
約200年前の1820年のGDP推計では、中国は世界のGDPの32％を占めていました。ヨーロッパは全部合わせても26％、アメリカは1.2％でした。日本は約2％です。その後、中国のシェアは32％から20％、10％と激減し、文化大革命の頃には5％に過ぎなくなっていました。それが、今また10％を上回ってきています。再び中国が発展してくる時期に当たり、私は、日本が過去100年の歴史をよく考えると同時に、中国との1000年を超える付き合いの中からいろいろ考えていかなければならないとつくづく思います。





崔
日本と中国の1000年を超える歴史の中で、不幸の歴史は50年しかありません。私がみるに100年前の日本のエリートの選択は、間違いではなかったと思います。その選択は、おそらく賢明なものだったのです。しかし、当時の中国のエリートには、残念なことにそうした考え方がなかったのです。当時の日本のエリートは皆ヨーロッパに留学し、きちんと西洋の学問を勉強してきていましたので、政策決定を担う層にはグローバルな視野がありました。一方、中国の官僚、エリート層には、グローバルな世界観を有する人はほとんどいませんでした。梁啓超や厳復といった世界の思想に目を開いていた人はいましたが、その説は受け入れられるにいたらず、残念ながら中国は悲惨な歴史過程に入っていきました。当時権力を握っていたのは、西太后のような古い、保守的な考え方の人で、時代の変化に対応することはできなかったことが、悲惨な歴史の原因となったのです。
川村
やはりリーダーの質、能力が問われるわけですね。
崔
リーダーの能力とリーダーのグローバルな視野、世界観が重要です。グローバルの時代になったのに、グローバルな視野を持っている人材がおらず、中国は100年前に、ここで失敗しました。その失敗の後、グローバルな視野、歴史観を持ったリーダーとして現れたのが周恩来です。彼は、中国を正しい方向に導きました。文化大革命の時代に伝統文化と西洋文明とが否定され、視野が狭まったのですが、鄧小平が改革開放を進め、再びグローバル化という世界の流れに乗ることができました。鄧小平の政治路線の基本は、周恩来と同じです。今、新たな100年がスタートしていますが、開始早々世界は危機に見舞われています。100年前には、日本にとってきちんとした発展モデルがありました。西洋列強モデルとその経験を勉強すれば、強い国は作れたのです。しかし、新たな100年にはそのようなモデルはありません。したがって、中国のような大きな国は、どのような国を目指すのか、またどうしたら安定したかつ長期の発展モデルを作れるのかを自分で考えていかなければなりません。アメリカのモデルは、中国には絶対適用できませんし、日本のモデルも、ヨーロッパのようなモデルもだめです。中国はどのような発展をしていくのかを、中国人が自分自身の知恵を絞って考えなければならないのです。
川村
今の指摘はものすごく大事だと思います。というのは、中国の面積とアメリカの面積はだいたい同じなのに対し、中国はアメリカの5、6倍の人口を抱えています。逆にいうと、アメリカ人は自分の土地を中国人の6倍使えるわけです。アメリカは、一人当たりで中国の6倍の土地を持っているわけですから、資源も6倍あります。だから国の中の資源だけで豊かになれました。中国は、一人当たりで使える資源がアメリカよりきわめて少なくなるので、どのようにして次代の発展を支えていくのか、これが世界にとって大きなテーマとなっていくはずです。



崔
これは、ノーベル賞をとった経済学者でも答えることはできませんね。世界で一番大きな問題です。うまく解決できなければ、つねに爆弾を抱えているのと同じことになります。問題の解をみつけるために、中国の学者は今後100年といった長い視野で、自分の学問と研究を考えていかなければなりません。そのために、私は100年塾を作ったのです。100年塾では、過去の100年をきちんと振り返って反省し、その上で未来の100年を考えていくということを目的としています。最後に、もう一つ述べておきたいと思います。今、新たな社会と経済の発展モデルを追求する研究がスタートしています。ただし、実際には経済発展のモデルの裏側には、政治的なモデル、政治体制があります。また、こうした政治体制や経済発展モデルの基層には、文化が厳と存在しています。文化というのは文明の基礎要素で、その中身には核心的なものが四つあります。人種、言葉、生活スタイル、もう一つは価値観です。価値観とは、簡単に言うと二つの問題に答えれば、それが価値観になります。一つは、人間はどこから来たのかということ、二つ目は人間は死んだ後にどこに行くのかということです。西洋文明では、人間は神が作り、天と地、宇宙も地球も全部神が作ったことになっています。死後は、天国か地獄に行くとされています。これらを論理的に理論付けていくことにより、いろいろな価値観がでてくるのです。中国人も日本人も多くは、こうしたキリスト教に基づく西洋文明の価値観には馴染むことはできません。そこで、東洋の価値観とは何かと考えたとき、東洋文明の中にその答えをみつけることができます。書物をたくさん読み、私は基本的な価値観を持つにいたりました。天地、宇宙、地球はどうして生じたのか、人間はどこから来たのか、人間は死んだ後どこに行くのか、その答えを導き出す学問は四つあると考えています。一つ目は易、二番目は道教、三番目は仏教、四番目は儒教です。易は、天と地がどのように変化してきたかを述べています。天と地は、陰と陽に分けられ、地にある万物は、木、火、土、金、水の元素（五行）からなると説明しています。宇宙がどうして生じたのかを語るのは、道教です。道が一を生み、一が二を生み、二が三を生み、三が万物を生むという表現、陰と陽と一から万物が生じるというのは、ビッグバン理論と発想が非常に似ています。仏教は、万物と人間の心や自然との関係を説明し、悟りへとつなげています。悟ることは、天、地、人が分かるということです。儒教は、人間はどのように生きるべきかという倫理や礼儀について、親子兄弟、友人、あるいは国家間といった関係にそれを適用していくもので、政治、行政につながります。東洋的な文明の核心には、これらの四つの学問が包摂されているのです。


川村
現代の話から古代の話、歴史の話、経済の話、多岐にわたって本当にありがとうございました。
崔
ありがとうございました。




]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第15回 内需主導に向け、中国は為替レートの制限緩和と需要拡大策が必要</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/15_20120706.html</link>
			<pubDate>Fri, 06 Jul 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        


川村
本日は慶應義塾大学の吉野直行先生をお迎えしました。先生は、財政政策、金融政策を含め経済政策全般にわたるオピニオンリーダーであり、さらに日本を代表する研究者として活躍されています。また、アジア、とりわけ中国と縁が深いと聞いていますが、先生と中国との縁の始まりはどういうものだったのでしょうか。


吉野
最初は、1990年、91年に訪問した北京です。そのときは、慶應義塾大学と中国人民大学の間で、計量経済学の普及に向けた学問的交流をしようというのと、当時私が政策金融を専門にしていたことから、中国でも政策金融を活用して経済を発展させていったらどうかという提案を携えて訪問しました。それ以来、北京とは非常に長い付き合いとなり、たくさんの友人がいますし、私の研究室の卒業生も北京や上海でたくさん働いています。
川村
先生は審議会等で、日本の政策決定を間接的にリードされておられますが、そうした政策形成と関わり合いの生じた経緯、それらの政策決定過程で蓄積されてきた考え方の成果について伺いたいと思うのですが。
吉野
私がアメリカで勉強していたときの指導教授は、サッチャー英首相の経済顧問であったアラン・ウォルターズ先生でした。私がちょうど大学院の博士論文を仕上げたときに、彼は経済顧問として英国の首相官邸に戻ったため、私は彼との間で手紙を頻繁にやりとりしながら指導を受けていました。そして、博士論文を完成させ、すぐイギリスに論文の発表に行ったのです。その後、アイルランドを初め各国の中央銀行で論文を発表する機会を得られたり、各国の財務省等でも発表の場を作ってもらったりというのが政策形成との関わり合いの最初でした。現実の政策とある程度関わっていかないと、本当の経済学はできないだろうと考えていたのです。もう一つは、アメリカの新しい経済学の理論は、ほとんどの場合現実の経済の分析から生まれて来るのですが、他方、日本の経済学者には、アメリカで作られた経済学のModelをもとに研究し、前提を変えたりして論文を書く人達もいます。私はアメリカで勉強した後、スウェーデン、ドイツ、フランスといったヨーロッパ大陸の研究者と一緒に論文を何本か書いたのですが、その過程で彼らとアングロサクソンの世界との違いをひしひしと感じることになったことです。そこで考えたのは、政府の役割というものがある程度あるのではないかということでした。その理由は、彼らが英語を母国語としないからです。つまり、英語を母国語とする国民は、ビジネスの世界ではどの国に行っても情報が全部取れますから、普通のビジネスマンでも勤まるわけです。しかし、ドイツやフランスでは、英語は母国語ではないので、英語を母国語とする国民からみるとハンディを負っていると見ています。そこに、ドイツなどでは、政府の強い役割があるとしていることを勉強しました。そういう意味では、スウェーデンや、ドイツ、フランスの学者と一緒に論文を書いていると、日本とものすごく似たところがあると感じました。ある程度の政府の関与というのは必要なのではないかということです。もちろん、あまりに政府が関与し過ぎて規制が多いということは良くないのですが、完全にアメリカ、イギリスと同じにしたら、日本は負けるのではないかという気もしたのです。
川村
公的な関与の必要性について、今の視点は非常になるほどなと思いました。ところで、日本経済は10年、15年デフレと言われ、デフレ脱却が一つのテーマとして掲げられています。その中で、インフレターゲット論が盛んに唱えられていますが、インフレターゲットと称されるものにも濃淡があり、ヘリコプターでマネーを撒く、つまりマネーの供給を増やしさえすればいいというような議論から、もう少し実体経済とセットで考え、どちらかというとマネタリーポリシーを触媒のようなイメージで捉えている学者もいれば、そもそもデフレで構わない、インフレになどすべきではないというような議論までが錯綜していると思います。先生はインフレターゲット論に対してどのようにお考えでしょうか。
吉野
日本の一番の問題点は、構造問題であるのにそれをあたかも金融政策で変えられる、ある程度のノーマルな中での変化というふうに、間違えて考えている方が多いのです。FRB副議長のジャネット・イエレンさんと議論する機会があったときに、私は今の日本の一番の問題点は高齢化だと思う、これは構造問題だと言ったのです。これは金融政策では解決できないものです。つまり、高齢者が多くなりすぎて若い人が少なくなると、当たり前の話ですけれど、年金の負担も大変ですし、社会保障費用も増えてくるわけです。そのとき、重要なことは、高齢者になるべく社会で長く働いてもらうことで、若い人と少し年をとった人たちが一緒になって、うまく日本社会の効率性を上げていくということだと思います。これは、金融政策で対応できる問題ではありません。それを、あたかも金融政策ですべて対応しようということ自体が間違いです。それから、元気な高齢者に社会に対し貢献し続けてもらうことも重要です。高齢者は、子どもは学校を卒業し、住宅ローンも大概払い終わっていますから、自分と奥さんが生活できればいいわけで、そんなに給料がなくてもいいわけです。職場の中で、元気で非常に能力のある高齢者にどういうかたちで働いてもらえたら、最も効率的になるかということを考えるべきです。そうすることが職場全体の効率性を上げますし、社会保障や年金に必要なお金も減らすということにつながっていきます。一番の問題点はそこにあるのに、マネーサプライとか金融政策が問題だとか言っているのです。
それから、インフレ目標ということですけれども、私は高いインフレ率を抑えるときにインフレ目標という考えは採りうるとは思いますが、物価が低位の状態なのにそれを上げろというのには、私個人としては少し違和感があります。景気を良くすることによって、徐々にインフレ率が上がるというのは分かります。例えば、これから石油価格が大きく上がったとすると、何にもしなくてもインフレになるわけです。それでも、景気が良くなるわけではありませんから、これをいいインフレとはいえないでしょう。私は、デフレの状況では景気回復の方が重要であり、他方でインフレが非常に高い水準になったときには、インフレを抑えるインフレ目標というのが重要だと思います。



川村
お金の需給関係によって景気の方向性が変わるというのは順序が逆だなと奇異な感じを受けていたのですが、今の話を聞きその意を強くしました。インフレターゲットと同時に語られる問題ですが、日本の中央銀行の機能あるいは独立性と、財政政策との関係、生臭く言えば、日本銀行と財務省との棲み分け、関係のあり様といったような議論についてはどのように考えておられますか。


吉野
私は、ある程度経済がノーマルな状態で浮き沈みのあるときには、金融政策が効くと思います。ところが、大きな構造変化が起こったようなときには、金融政策では対応できないわけです。ケインズが1930年代に登場したのは、そうした大きな構造変化のときには、フィスカル・ポリシー、財政政策で対応していかなくてはいけないということを唱えたからだと思うのです。
今、日本の最大の問題は構造問題です。高齢化の進展と、産業構造の変化で日本の企業が円高の中で中国や韓国と比べると非常に苦しいということですから、これは構造改革と財政政策で対応すべきであって、金融政策の微調整では対応できないと思います。ですから、役割分担をはっきりさせないといけないと思うのです。一部の政治家の方は、何でも金融政策で解決できるのではないかというように思われて、金融政策が悪いと言われるのですが、そうではないと思います。つまり、金融政策で対応できる範囲と財政政策で動かしていく範囲とをしっかり見定めなくてはなりません。
それから、もう一つは、日本の財政は今ものすごい赤字で、ギリシャよりも財政赤字の名目GDP比率が高い状態です。それなのに、なぜ日本の財政が維持されているかというと、過去に蓄積された国内の貯蓄があって、それが預金として銀行に預け入れられ、銀行は貸出先があまりないので、国債を買っているからです。年金基金も国債を抱えています。運よく国民の金融資産として国債を持ち続けていたわけです。しかし、今後このまま国債が増発されていくと、国民のネットの金融資産では持ちきれなくなりますから、今度は海外に国債を売らなければならなくなります。そうすると、ギリシャと同じように非常に不安定になってくると思います。そういう意味で、最も重要な財政政策は、構造変化に応じた改革を行うことによって、高齢者の社会保障や、年金というものはなるべく抑制していき、財政赤字の拡大を止めるということだと思いますね。



薛軍
少子高齢化、財政赤字、円高の3つの深刻な問題に、日本は悩まされています。その中でも、財政問題は今ここにある危機に他ならないと思います。日本の財政については、どう考えておられますか。
吉野



今の状況をみると、日本の財政赤字はすごく大きいのですが、これと個人が持っている金融資産とを相殺することができますので、まったく問題ないのです。ですから、今の状況であれば国の破綻はありえないのです。それはどういうことかと言うと、我々の持っている預金がゼロになるということです。つまり、預金が国債を持っている、あるいは我々の預けた生命保険が国債を持っていますから、相殺しましょうということになると、我々がたくさん持っていると思っている1,450兆円の金融資産が、ちょうど政府赤字とバランスしますので、国の破綻ということはないのです。だから重要なことは、これ以上国債を増やさないということです。それでは、国債が万が一増えたときに外国人が買うかどうかを考えると、変な話なのですが、今の円高というのは、外国人が日本に投資してきているわけで、しかも短期国債を買っているのです。ということは、これだけ日本の将来が不安でも、短期的には日本の国債の方が、ユーロやアメリカの国債よりはまだいいかもしれない、と今は見ているわけです。


薛軍
中国に話題を転じますが、今年になって、中国政府は自らGDP成長率の目標を低めに設定しました。その意味をどうとらえるべきか、その背景をどう見るかについてコメントをお願いします。
吉野
しばらく前に中国の高官から、8％の成長を中国は維持し続けないといけないという話を聞きました。そのときには、どの社会層の人も含め皆の所得が成長するのが8％だという話でした。皆の所得が成長していれば、少しぐらい所得格差が出てきても、それがクッションとなり大きな不満は出てこないだろうと聞いていたわけです。ところが、今回いろいろなショックが生じたことで、今後中国が目指していかなければならないこととして、内需の拡大を図っていく、為替レートに関してある程度柔軟に考えていくという点があげられています。為替レートの制限下で外貨がどんどん溜まり、それがマネーサプライにそのまま結びついていくと、バブルが生じる可能性が出てきます。ですから、中国に必要なことは、これまでの輸出依存による成長を内需主導の拡大に変えていくと同時に、マネーサプライのコントロールをきっちり行うということだと思います。現在、中国は、銀行の貸出などを制限することによって、金融のオーバーヒーティングを防ごうとしています。日本のバブルのときも、同じようにマネーサプライが増えていました、それを総量規制というかたちで、不動産向けの融資規制をしようとしたのですが、結局いろいろなところからお金が流れていって、バブルは抑制できませんでした。バブルの進行を止めることができなかったわけです。その意味で、中国に今後必要なことは、為替レートについて、固定制からバスケット通貨制というような方向に動いていくこと、同時に経済成長を維持するために、内需の中に成長を支える柱を作っていくことだと思います。
薛軍
内需には、主として消費と投資があります。今の中国の成長は外需依存ですが、私から見るとそれと同時に投資依存といった問題もあります。日本の投資率は高い時で30％程度ですが、中国のピーク時の投資率は40％台ですので、内需でも投資にはもう依存できなくなっています。消費が残されていますが、今、消費だけで中国経済を引っ張って行くには材料不足だと思うのですが。
吉野
GDPのコンポーネントは、消費と投資ですが、投資には二つあって、企業の投資と住宅投資があります。それから政府支出ですが、これも公共投資と政府消費支出があります。あとは、輸出と輸入です。そうすると、消費だけを増やさなければならないとは限らないわけです。中国では、普通の中間層にとって住宅投資は重要です。上流層は既に十分な住宅資産を持っていますが、住宅政策としてきちんと対応し、中間層、低所得層にも住宅取得の道を提供することによって、投資IのH、いわゆる住宅投資を増やすことは十分可能だと思います。さらに、公共投資を中国全体に広げることにより、GのI、つまり政府支出の投資部分もこれから増えていくでしょう。
薛軍
年金や教育も重要でしょうね。
吉野
それはGのCです。それには、長期の投資が中国で今後必要になります。そして、長期の投資を促すためには、生命保険とか年金という金融制度が必要となってきます。アジアの金融は、今、銀行中心で、短期なのですが、サブプライムローンやユーロの危機を経て分かったことは、やはり長期の金融が必要だということです。アングロサクソンの世界を見ると、債券市場があり、この社債の市場で、長期の資金を調達することができます。一方で、日本には従前、長期信用銀行があり、ここが長期の安定的な資金を提供していました。
私は、銀行の中に、政策金融や長期資金を担う金融機関を、日本の高度成長期同様に作るというのが、一つのやり方としてあると思います。そのためには、長期で資金を預ける人がいないといけないわけですが、長期で資金を預けるのは、一つは生命保険、それと年金基金です。中国も、これから高齢化が進んできますから、ある程度公的な年金や私的な年金を作り、そのお金を長期の投資で運用するというかたちになっていくと思います。そういう意味で、資金の供給サイドと需要サイドが必要です。需要サイドは長期の資金を使い、例えば長期のインフラ投資をしていくことになりますが、これも国からの資金だけではなくて、PPP（Public-Private-Partnership=官民協調）によって民間と国の資金を合わせて効率性を保っていくということが必要だと思います。ですから、私は消費だけが中国で期待できる内需ではなく、住宅投資、公共投資も増え、さらに政府消費として、教育、年金、医療、それに社会保障といった分野にも資金が回っていくと思います。
薛軍



大変勉強になりました。住宅投資は、バブルにつながるかもしれませんので、日本の教訓を活かしてどうやって防いでいくかが課題ですね。


吉野
今、私は三つのバブル指標というのを作っています。これは、金融が銀行中心の経済において、気をつけていかなければならない指標です。アメリカやイギリスでは、バブルの指標というのはキャピタルマーケットがそれなのですが、金融が銀行中心のアジアには適用できませんので、新しいバブル指標を作りました。
一番目は、住宅・不動産向けの貸出金を全体の貸出金で割った比率です。日本も、今回のアメリカも、さらに中国もそうですけれども、バブルのときにはこれが上昇します。日本は、16％が33％程度まで上がりました。ですから、この比率を注意深く見守り、この数値がトレンドとして上昇し始めたときは、まずバブルではないかと疑うべきことです。
それから、二番目は、住宅・不動産向けの貸出金の伸び率と経済成長率との伸び率の差です。住宅・不動産というのは、経済で活躍している企業や個人がその住宅に住み、またオフィスビルを借りているわけです。そうすると、彼らが払える賃料は、経済成長率以上になるはずはないわけです。そうすると、経済成長率を上回って住宅・不動産向け貸出金が伸びていき、その経費の支出が大きくなっていくということは、やはりおかしいわけです。
三番目は、住宅価格と所得との比率です。これはアメリカでも日本でも見られ、アメリカのサブプライムローンのときは急速に上がりました。それが今、また元の数字に戻ってきています。日本も同じです。この三つの指標をよく見て、指標がちょっとおかしいなと思ったときには、人々に対して、銀行に対して警告を発するということが重要だと思います。
薛軍
日本のバブル時代には、この三つの指標からすべて警告が出たのですか。
吉野
そうです。まず、住宅・不動産向けの貸出の総貸出に占める比率が大きく上昇していきました。当時、皆が日本の不動産価格は下がることはないと思っていました。それには、ちょうどベビーブーマーの人たちが住宅を買う時期でもあったので、住宅価格が上がる前に買おうという動きがまず一つありました。もう一つは、東京市場がアジアの金融の中心になり、外国から多くの金融機関が日本に進出し、アジアへの投資をしていくと考えたことから、オフィスビルが足りなくなるとみられていました。それで、投機的な動きが大きくなったのです。住宅・不動産向けの貸出金の伸び率と経済成長率を見れば、その差は非常に大きくなり、住宅価格もさらに高くなっていましたので、この三つの指標はバブル時の日本に全部成り立ちました。今回のサブプライムローンのアメリカでも、同様です。現在、中国人の学生と一緒に、これが中国でも成り立つことを証明しようと思っています。



薛軍
ぜひ後ほどその結果を聞かせてください。6月1日から、東京及び上海市場で、人民元と円との直接取引ができるようになりました。人民元の国際化は、中国の金融資本市場開放に向けた重要な一環として位置づけられています。また、中国政府の国際戦略ともされていますが、自由化の一番のネックは、資本の自由化と見られています。人民元の国際化について、その見通しなどをお聞かせください。
吉野
人民元については二つ問題があって、為替レートの変動をどうするかと、資本移動をどうするかという問題があります。最終的には、人民元も円と同じように自由に変動することにより、完全な資本移動の自由を実現する、これが最後のゴールだと思います。まず、為替レートに関しては、私は、バスケット通貨制により、そのウエイトを徐々に変えていくということが妥当だと思います。今、アジアの国々に関して動学的な分析を行い、いくつか論文を書いているのですが、バスケット通貨政策を採用して、その最適なウエイトを目指し徐々に為替レートを動かしていくことにより景気と物価の安定を得ることができるということを、シンガポールとマレーシアに関して計量的に示すことができました。中国も、アジア諸国と同じように、現在バスケットにおけるドルのウエイトが高いわけですが、ユーロ、円、その他通貨を含め、そのウエイトを変えていくことが必要です。また、ウエイトの設定は貿易ウエイトだけではなく、それぞれの国とどれくらいの資金取引があるかという資金の流れや、財・サービスの流れなどを考えないと本当の最適値を出すことはできません。少し難しい数式なのですが、中国にこの式を当てはめれば、最適なウエイトを示すことができます。実は、数年前に中国でそれを発表したことがあるのですが、吉野先生の数式は難しすぎる、もう少し易しいのがほしいと言われてしまいました。
薛軍
人民元の取引を自由にして人民元が上昇すると、中国企業の一部は採算がとれなくなります。今は人民元の壁があるからこそ、中国で付加価値の低い産業が生き残っていられるのですが。
吉野
バスケット通貨制の最適値を目指して、徐々に動かしていくということであって、為替レートを急に変えるということではないのです。ゴールがあそこで、何年後ぐらいにあそこまで行きますよとすれば、企業もそれに向かってどう内部の構造を変えていくべきかを考えることができます。一番まずいのは、急に為替レートを自由化することです。
薛軍
人民元の自由化には、これからどれぐらい時間かかると考えられていますか。
吉野
これはデータを見ないとわかりませんが、他の国の例を見ますと、5年とか7年とその国の構造によって違ってきます。また、中国国内の内需がどのくらい良くなるかということも大きな要因になると思います。それから、資金の移動に関しては、中国と日本の間における元と円の直接の交換ということが非常に重要です。なぜかは、外貨準備はしばらく前までほとんどドルでしたので、中国も日本も大量のドルを持っていますが、今回のサブプライムローンやいろいろな危機で、外貨準備にドルだけを積んでおくのは望ましくないと分かったのです。それがまず一つです。二番目は、日本と中国の間の貿易取引の多さです。決済のつど、元をドルに、ドルを円に替えるとしたら、そんな馬鹿らしいことはありません。互いの貿易取引が多いのであれば、それに見合った外貨を持ち合っていればいいのです。
日中両国の取引、決済は元と円で済ますのが一番いいわけで、その意味で今回元と円の交換が実現したことは、素晴らしいことです。中国は、元とユーロ、元とウォンというように、今後は自国通貨と他の国の通貨というかたちで取引を拡大していくべきで、世界の共通通貨であるドルを通じて取引するというかたちにはしない方がいいと思います。そういう意味で、中国の外貨準備の理想は、バスケット通貨のウエイトに応じた外貨をもつということです。
川村
先生は、アジアの金融資本市場について、とりわけASEANで、金融協力として長期や現地通貨建ての資金調達手段、あるいは運用手段を作ろうと尽力されています。アジア通貨危機以降のASEAN諸国を中心としたこれらの金融協力の成果についてどのように評価されていますでしょうか。
吉野



大きな流れとして、長期で安定的な資金を提供していくには債券市場が必要だということで始めてきたわけですが、そんなに早く債券市場が育成できるわけはありません。日本でも、債券、社債の市場というのはまだ不十分にしかできていないわけで、やはり銀行中心なのです。個人的には、社債市場の発展を促すと同時に、長期資金を安定的に提供する金融機関を作るのがいいのではないかと考えています。その一つが、政策金融機関、長期信用銀行であり、もう一つは年金基金と生命保険です。アジアは、これから高齢化に向かいます。すると、生命保険や年金の需要が高まってきますから、そういう銀行ではない金融機関を育成し、その資金を長期資金として金融市場に流していくことが必要になると思います。


アジアでは、インフラの整備がこれから必要です。中国も、地方に関してはインフラがもっと必要だと思います。そのとき、インフラ整備のための長期の資金として、PPPで効率性を確保することで、国の資金と同時に年金や生命保険の長期の資金の流入を促すことも必要です。この一つに、インフラボンド、あるいはインフラ・レベニューボンドと言われるものがあり、今少しずつアジアで行われています。
それから、もう一つアジアで重要なのは、欧米の人たちはあまり言わないのですが、中小企業金融です。アジアに行くと、経済の担い手は中小企業だと分かりますから、これらの中小企業を安定的な資金でいかに育成するかが重要です。しかし、こうした企業が社債を発行できるのかというと、いくら債券市場が発達しても、それは無理でしょう。そこで、今、一生懸命やっているのは、中小企業のデータを整備することです。中小企業が、どういうビジネスをしているのかをある程度分かるようにして、それをアジア共通のデータベースにすれば、アジアの中で国を超えて金融機関がお金を貸しやすくなります。そうすることで、アジアの貯蓄をアジアの中で回していくことができるのではないかと考えています。日本では、CRD（中小企業信用リスク情報データベース）というのを作り、中小企業のデータを信用保証協会及び金融機関を通じて集めています。それで、同じような方法が採用できるかどうか、タイ、マレーシア、インドネシアで、中小企業庁や財務省と一緒に研究していまして、APECとも一緒に研究しています。
川村
視点を変えた質問になりますが、現在、先生は慶應義塾大学に加え、アジアのいろいろな大学でも教壇に立たれており、昨年には中国の社会科学院でも教鞭をとられました。また、以前にはアメリカでも教えられていたというように、全世界の若い学徒を相手にされています。そこで、現在のアジアの学生と日本の学生とを比べてみたときに、教育者としてどのような印象をお持ちでしょうか。
吉野
昔、アジアの国々を回っていたときにどういうことを考えたかというと、日本人が少しくらい怠け者になってもアジアの学生には負けないだろうと当時は思ったのです。その理由は二つあるのですが、一つ目は図書館にあまり本がないことです。一方、日本の図書館は非常に充実していて、ジャーナルも主要なのがありますから、勉強しようと思えば勉強できる環境です。二番目は、東南アジアはやはり暑いのです。相当暑いので、日本人が怠けて勉強量が8割、7割になっても大丈夫と思いました。しかし、これが完全に覆ってしまいました。今は、英語さえできれば、インターネットで世界のどんな文献でも読むことができますし、東南アジアでも冷房が効いています。この前、北京大学に行ったときに、北京大学の先生と一緒に図書館でちょっと喋っていましたら、学生が皆私たちの顔をうるさいなという感じで睨むのです。これは大変だ、日本の図書館とは違うなと思いました。アジアの学生はものすごく勉強していますね。日本の学生の強みだったのは、数学力が強かったことだと思うのですが、それをゆとり教育のときに完全に間違えました、アジアの国が、皆一生懸命教育に力を入れているのですから、日本もきちんと教育をしていかないと負けていってしまいます。それから、私が授業で心がけているのは、学生に目標、目的を持たせることです。目標を設定することで、授業の理解が一層深まっていくのです。最後に、日本人の学生の英語力は駄目ですね。中学校、小学校から、英語で聞く、喋ることができるような教育を続けていかないと、グローバル化の中で日本だけが遅れていってしまうと思います。
川村
多方面にわたり、非常に要領良く我々にも分かりやすくお話いただきまして、本当にありがとうございました。
吉野
ありがとうございました。]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第14回 アジアの世紀に向け、日中間の人の交流拡大が急務</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/14_20120626.html</link>
			<pubDate>Tue, 26 Jun 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        川村
本日のゲストは、アサヒグループホールディングス相談役の福地茂雄さんです。福地相談役は、アサヒビールの社長、会長、さらにNHKの会長として、また芸術・文化関係にも多大な貢献・功績を残されております。加えて大学教育にも、大変造詣の深い方でいらっしゃいます。まず、中国との関わりのきっかけについてお聞かせください。



福地
私が50年間おりますビール会社は、どちらかというとドメスティックな産業でした。それでも、国際化がだんだん進み、アサヒビールも世界に出て行こうとする中で、1994年に杭州ビールの株を取得して杭州ビールの経営に乗り出したのが、中国とのお付き合いの始まりでした。現在は、北京ビールや深圳などでスーパードライも作っています。そのほかに、山東省では循環型農業を手がけたりしています。それと杭州ビールの経営に参加した1994年に、中国、韓国を含む東アジア、東南アジアからの美術、音楽に限った留学生にアサヒビール芸術文化財団がスカラーシップを始めまして、学費を補助しています。奨学金を受けた中国からの留学生は60名以上に上りますが、現在そういう方々が中国各地で芸術家として活躍しているのを非常に嬉しく思います。芸術の方もビールの方も、両方ともお付き合いは1994年からです。


薛軍
2011年から新国立劇場の理事長もなさっていますが、その活動内容をお聞きかせ下さい。
福地
NHKの会長を辞めると決まったときに、文化庁からNHKを辞めたら新国立劇場の理事長を引き受けてくれませんかという申し出がありました。実は、劇場経営についてはNHKに奉職する半年ほど前に、東京都から東京芸術劇場の経営を手伝って欲しいという依頼があり、館長に就任しました。そこで、東京芸術劇場と新国立劇場とが一緒にコラボレーションすると、両方のいい所を活かせるのではないかと思い引き受けたのです。その結果、東京都と新国立の両方で劇場経営をすることができました。アサヒビール時代、私は経営の判断の軸足というのは、顧客満足、お客様目線だと言っていましたが、東京芸術劇場では観客目線で仕事をしてほしいと言い、NHKでも視聴者目線で話をしてほしいと言ってきました。この顧客目線、観客目線、視聴者目線というのは、全てBtoCの世界で不特定多数のお客様を相手にする点では同じものです。つまり現象面が違うだけで根本は一緒、経営の軸足は一緒という意識で仕事をしてきました。



川村
2012年は日中国交正常化40周年ということで、この夏に東京と北京の双方で新国立劇場が中国と共同でオペラのアイーダを上演することになっていますが、こうしたイベントを開くこととなった経緯、あるいは苦労されたことをお聞きしたいのですが。


福地
私の就任前ですが、2010年の夏に中国の国家大劇院から、日中国交回復40周年の記念イベントを一緒に開きませんかという話がありました。新国立劇場でもぜひ一緒にということで引き受けたのです。ただし、予想もしなかった問題が生じたのが、2011年3月の東日本大震災でした。大震災により電力不足問題が発生したため、去年の夏は節電にいろいろな工夫をし、非常な苦労をしました。それに、原発事故では中国を含め多くの外国の方が帰られたので、果たして公演が成り立つかどうかという問題もありました。今は、これらの問題も落ち着いてきましたので、文化庁委託事業として準備を進めています。上演はコンサート形式で、7月の終わりに日本の新国立劇場で2回、8月の初めに北京の国家大劇院で2回という予定です。
薛軍
アイーダは共同開催ですね。北京と東京では、それぞれの別のメンバーが演じるのでしょうか。
福地
主役級の6人のメンバーは、中国3人、日本3人です。アイーダは、和慧さんという中国の方が東京、北京とも演じますが、ラダメスとアムネリスは日本人が東京、北京とも演じ、アモナズロは中国の声楽家です。また、ランフィスは東京では日本の、北京では中国の歌手が演じ、エジプト国王は東京では中国の、北京では日本の歌手が演じます。合唱団は合同演奏で、ちょうど半分半分となります。それから、指揮者は東京では日本人の指揮者、北京では中国人の指揮者です。オーケストラについては、大人数で動かすわけにはいきませんから、東京は東京フィルハーモニー交響楽団、中国は国家大劇院管弦楽団が演奏します。このように、すべて日中半々のかたちで準備を進めています。



薛軍
中国の文化と芸術は、古くから日本に非常に大きな影響を与えていますが、特に強く感じられるのはどのような点でしょうか。
福地
日本の文化は、芸術文化も、食文化も、衣服の文化もそうですが、中国、韓国、要するに大陸の影響を受けています。その中でも、中国の文化で一番優れていると思うのは漢字の文化です。西洋には、美術、絵の文化はありますが、書の文化はないですよね。一方、中国の文化には、北京の故宮博物院にすぐれた書が集められているように、書の文化があります。書の文化というのは漢字の文化ですが、あれほど難しい漢字をたくさん覚え、それを自在に表現して書くという文化がよく育ったものだなと思います。私は書が好きで、書は絵に通じ、書き方が絵になると思っています。



薛軍
中国と日本の間の芸術観の相違について伺わせて下さい。


福地
いろんな面で芸術観というのは似ているのではないかと思います。陶磁器の文化など、特に中国と日本は似ていると思います。それから、スポーツの文化にしても、日本人が上手なのは中国人もだいたい上手ですよね。得意な分野が似ています。卓球や、この頃ではバレーボール、マラソンがそうですね。一方、絵画の文化については少し違うかなと思います。中国の絵はあまり知らないのですけれども、やはりヨーロッパの芸術観が先に出てきます。
川村
昔の中国の絵には、竹林や森などのイメージが出てきますが、今、たとえば北京に行って真っ先に受けるイメージは、ビルの石のイメージです。東京もビルは多いものの、ビルとビルの間などに、木や緑といったよく言えば繊細な、悪く言えば弱々しいものが結構あります。一方で、中国はビルも規模が大きくて何かピラミッドのようなイメージを感じます。こういうところに、何か日中間で芸術観に違いがあるのかなと、ときどき思うことがあります。
福地
中国の国土からくる民族性も合わせて、スケールの大きさなど文化の違いというのはあるでしょうね。スケールというのは、物理的な大きさと、時間的な長さです。アサヒビールで中国企業との合弁に携わったときに、日本と同じような時間観念で数字や結論を求めたら失敗するとよく聞かされましたが、やはりそんな感じがしました。
川村
文化、芸術との絡みでは、特に東京を中心とした大都市と、地方の間でよく言われている格差が、芸術文化の面でも出てきていると思います。歴史を紐解いてみると、九州は大陸の先進文化の入り口でして、福岡に鴻臚館もありましたし、江戸時代は長崎が文化の大きな輸入窓口でした。文化の先進地域であったこうした地方が地盤沈下したのか、それとも東京が台頭してきたのかはわかりませんが、たとえば美術館、博物館での展覧会、劇場での上演などの回数や日数は、東京が圧倒的に多いのです。こうしたいわば文化の地域間格差ともいうものについて、何か感じる点はありませんでしょうか。



福地
二つあると思います。一つは、地方と東京の間に固有の文化の違いはないと思うのです。三代続けて東京に住んでいる人がどれだけいるかを考えてみればわかります。東京に住んでいるのは、九州や東北を始め地方から流入してきた人たちで、三代続けて東京に住み続けているような人たちは、ごく限られています。ですから、今東京に住んでいる人は、みんな故郷の文化を引きずって持ってきています。浅草の三社祭に行ったことがありますが、神輿を担ぐのは、浅草神社の氏子よりも他所から手伝いに来ている人たちが多いのが実状です。だから、お祭り自体は地域の固有の文化ですけれども、お祭りに参加している多くの人にとっては、彼らの文化ではないのではないかという感じがします。一方で、地方では住んでいる人がだんだん減っていくので、地方の固有の文化が担い手を失い、非常に弱くなってきています。つまり、地方の文化、地域の文化というものをもう一度見出していかないといけないと思います。


それから、もう一つは、東京の文化は幅広いということです。舞台芸術でも、歌舞伎、バレエ、オペラ、現代舞踊、演劇という具合です。東京の人はこれらに接する機会が多いのですが、地方の人が接する機会は非常に少ないのです。新国立劇場は新宿にありますが、東京の人だけに舞台を見てもらうということではいけません。あくまで国立の劇場なので、幅広く全国の人々に親しんでもらうのが大事だと思うのです。そこで、地方公演を行おうと企画していましたが、今年から半額を文化庁で負担するという予算措置ができましたので、これから本格的な地方公演に乗り出していこうと考えています。しかし、地方には場がないのですよ。たとえばオペラを上演しようと思ったら、フルオーケストラ編成でしょう。オーケストラピットがある劇場がどれだけあるか、場面転換ができる劇場がどれだけあるか、となるわけです。だから、地方に持っていくときには、地方用に形を整えて持っていかなければなりません。たとえば、コンサート方式のフルオーケストラとすると人件費がかかりますから、録音したものでオペラやバレエを上演する、オペラの場合でも歌手だけ並んで、象やラクダを使わずアイーダを上演する、そういうふうな形に変えています。また、メディアの活用も考えています。なにしろオペラのチケットは高いですからね。二人で行くと五万円から十万円もかかります。もっと、オペラに入門しやすいようにしないと客層が増えていきません。裾野をどう広げていくかというときに、簡易に取り組める方法の一つがメディアを利用することです。そのときにも、まず視聴者の視点が大事です。たとえば、相撲中継はきっちり6時前に終わります。取り組みが長引いて6時半までかかったということはまずありません。野球放送もだんだん短くなってきて、今では2時間ちょっとで済むようになりました。オペラの番組を製作するときにも、オペラは4時間、5時間かかるのが当たり前だと思わずに、初心者がオペラにもうちょっと親しむために、気軽に見られるもう少し短い時間で番組を作ってほしいのです。そうしながら、地方での公演を増やす、地域の人に舞台に親しむ機会を与える、ということが必要になってくると思いますね。



薛軍
日本企業の経営の特徴、その強さ、弱さについてお話しいただけますか。
福地
今、経営に一番必要なことは、変化への対応ではないでしょうか。私は、話をするときによく3次元の変化の時代と言うのです。今、変化が起こっていない分野ってないですよね。例外なしにあらゆる分野で起こっています。例えば、私がアサヒビールに入ったときには、ビールは麦芽が3分の2以上入ったものでしたが、麦芽が半分という発泡酒ができましたし、今は麦芽をまったく使わないビール風飲料が出てきました。当時からは考えられない時代ですよね。写真フィルムもそうです。1990年代まで、カメラにはフィルムを装填して撮影していましたが、1990年代に「写ルンです」というカメラ不要のレンズ付きフィルムが出てきました。それが2000年代に入ると、デジタルカメラ化の進展で写真フィルムが不要になってしまいました。各分野で変化というより変革が起こってきています。その変化を読み取り適応していかないと、会社自体が立ちいかなくなってしまいます。写真フィルムに依存しすぎたコダック社がいい例です。
二番目はスピードですね。よく日本で、経営資源はヒト・モノ・カネと言いますが、ヒトというのは、教育により質を上げること、社員を集めることで量を増やすことができます。カネというのも、増資をするか借りてくるかで増やすことができます。考えてみると、増減させることが何もできないのは、時間だと思います。オバマ米大統領も福地茂雄も1日24時間しか持っていません。つまり、この時間という経営資源をいかに有効に使うかが、経営者に求められていることだと私は思います。次に、今の日本の経営者に求められているのは、最初に言いました顧客目線です。競争が激しくなってくると、コンシューマーとコンペティターを見る順番を間違えることがあります。競合他社が何をしているのかと様子をうかがう前に、まず自分の会社がお客様に対して何を提供できるか考えなければなりません。自分のところの強みである、企業のコアコンピタンスをどうやって活かしていくかということが、大事なのではないかと思いますね。
川村
最後に、日本と中国の間の文化、芸術交流に関する今後の見通し、あるいは相互理解をさらに発展させていくためのあり方についてお話をお願いします。
福地
歴史を振り返ってみますと、19世紀というのはヨーロッパの世紀、20世紀はアメリカの世紀だったと思いますが、21世紀はアジアの世紀でしょうね。今、日本の主要都市はみなアメリカの方角である太平洋側を向いていますが、21世紀のアジアの時代になると、長崎が一番大陸に近くなります。中国とも日本で一番近いわけです。私は、煙台、北京、上海や深圳に行ったことがありますけれども、飛行機では成田空港を飛び立ち長崎の五島列島までの時間より、五島列島から上海までの方がはるかに近いのです。こうした条件を活かし、ヒトの動きの面では、日本と中国とでもっと行き来をしないといけません。そして、ヒトの動きに付いていくのが、芸術文化の動きだと思いますね。
教育の問題では、留学生の相互交換が重要です。長崎—上海間には数千円で行き来できる定期航路ができましたから、長崎大学が中心になって、もっと留学生の交換をすればいいと思います。長崎大学の強みはというと、九州の国立大学の中で唯一水産学部を有しており、さらに環境問題の専門学部を持っていることです。環境問題や東シナ海、日本海の水産資源にともなう問題は、日中間の固有のものだと思いますから、こうした長崎大学の強みを活かして、日中間のヒトの動きを増やしていくことです。ヒトの動きにともなってモノの動きが出てきますから、これが一番急ぐことだなと思いますし、ぜひ実現したいですね。



川村
本当に今日は、多岐にわたる話を大変ありがとうございました。


薛軍
ありがとうございました。
福地
どうもありがとうございました。
]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第13回 日本の経験を糧に、アジアの持続的な経済発展及び調和社会の実現へ</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/13_20120523.html</link>
			<pubDate>Wed, 23 May 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        


川村
今回は大和証券グループ本社の鈴木茂晴会長をお迎えしています。鈴木会長は、大和証券グループ全体の経営に社長として手腕を発揮され、昨年から会長に就任されました。中国、アジアとのビジネスについても、実績を残されています。最初に、中国との縁の始まりとエピソードについて教えていただけますか。


鈴木
中国との最初の縁は、83、84年頃だったと思います。当時、私は秘書室にいたのですが、中小の証券会社の社長と大和幹部との「ふっこ会」という懇親会がありまして、その会で上海等の視察に行ったのが始まりです。その頃は、中国と電話するのにもまず電話局に申し込み2、3時間経って始めて電話が繋がるという時代で、ホテルの予約にも困るという時代でした。その後、2000年代に私が投資銀行部門のヘッドになったときが、ちょうど中国企業の民営化の始まりと重なりました。中国企業の公募増資の日本での主幹事を獲得するために、ずいぶん中国に行きましたが、行く度に北京の風景が変わっているのには目を見張りました。どんどんビルが建ち始め、広場だったところの半分くらいは大きなビルに変わっているというように、国が伸びるときの勢いを感じました。
薛軍
大和証券と中国との関係ですが、鄧小平氏の改革開放直後の30年あまり前から、中国の資本市場改革については、大和証券グループから多大な協力を受けていたようです。その辺の話をお聞かせください。
鈴木
大和証券は、国際部の大和と言われていたぐらい海外ビジネスに関しては有力なプレーヤーでした。アジアには特に力を入れており、70年代の後半には中国に関する研究がかなり進んでいました。80年代に入ると、中国との絆を強めるべく、また資本市場が開かれたときに役立つよう、中国政府・金融機関の若手をトレーニーとして受け入れ、債券、株式をはじめ資本市場の役割や制度というものへの理解を広めようと努めました。受け入れた人数の総数は数百人に上り、その後中国で活躍されている方が数多くいます。その頃来られた方々は、それはもう熱心で知識を獲得しようと貪欲に勉強されていました。今では、中国は大きなマーケットになり、我々も教えてもらわなければならないことがたくさんあるぐらいで、あの時代を考えると本当に隔世の感がしますね。
川村
ご指摘のあった大和証券と中国の深いつながり、その一つの成果かとも思うのですが、2011年10月に大和証券グループ、具体的には大和総研と中国最大の社会科学系のシンクタンクである中国社会科学院とが基本業務提携契約を結びました。今後これを大きく発展させて行きたいと思っていますが、協力や協働など今後のあり方について御教示いただけますか。
鈴木
中国社会科学院は、今後の様々な政策ビジョンも含めて研究している中国最大のシンクタンクですから、大和総研が提携できたことは、大和証券グループにとっても非常にありがたいことです。日本は、高度成長、土地バブルの発生、バブル崩壊後の厳しい十数年を経て今に至っているわけですが、中国にとってこうした日本経済の経験は参考になると思います。また、これらに対応し積み重ねてきた日本のノウハウも研究対象になるでしょう。そういう意味で、お互いが非常に得るものの多い提携となることを期待しています。そして、できるものを一つずつ着実に実行して成果を出すというのが、まずは重要だと思います。
薛軍
中国の株式市場は、90年代初めに始まったばかりですが、現在上場企業数は2,000を超えています。先進国を見ても2,000以上の上場企業を有するマーケットは6つしかありません。これからも中国の資本市場は伸び続けるものと感じています。この点についてはどう考えておられますか。
鈴木
中国企業の民営化、IPOには初期段階から関わってきましたので、中国市場の急拡大には感慨無量です。ペトロチャイナが時価総額で世界1、2位を争っていますし、時価総額ベストテンに中国の銘柄が4、5銘柄入っています。こうした非常に時価総額の大きい企業が台頭してきていますから、今後を考えますと、QFII（適格外国機関投資家）の拡大などでもっと海外からお金を呼び込む必要があると思います。今、QFIIで認可されている額は時価総額からみて非常に小さく、市場として流動性を高めていくためには、もう少し外国人投資家が参加できるようにしていくことが必要でしょう。また、証券市場が伸びていく中では、ディスクロージャー等の問題も含めて、世界的なスタンダードに合わせていかなければならないことも出てきます。
川村
ディスクロージャー、ガバナンスは言われ続けていますね。
鈴木
今でも問題が指摘されていますので、改善の余地は大きいと思います。今後は、人民元の国際化も進み、貿易決済も当然人民元というような時代も来るでしょうが、そのときに市場を透明で公正なものにしていなければ、お金をなかなか集められないということにもなりかねませんので、その点が大きな課題ではないかと思います。



川村
中国と言えば、政治は北京、経済は上海といわれますが、一方で香港もあります。日本や海外の投資家の目がまず向くのは、北京や上海よりも、当面はやはり香港でしょうか。



鈴木
私が何度も行った感覚で言いますと、確かに香港は国際的な街ですが、上海も国際的な感じを持っています。昔から上海は交易の街として発展し、旧市街と新市街とに分かれていて、旧市街はかつて国際都市だった頃の雰囲気を持っています。最近、上海に行ってみて、上海は香港に十分対抗するものを持っていると感じました。海外からの人たちが上海ではほとんど違和感なく過ごしている、国際都市というものを感じる街であることは間違いないですね。上海がさらに整備されていけば香港の地位を越すかも知れません。


薛軍
おっしゃる通りですね。今まで30年間、香港は対外窓口、また架け橋という役割を果たしてきましたが、今後国際収支の資本勘定がオープンになっていくと、一部の機能について上海が香港を代替する可能性も十分あると思います。
鈴木
そういうものを感じますね。
川村
そういう経営トップの皮膚感覚は、ものすごく大事だと思います。その点で、日本市場に関してですが、20年前のバブル時に日経平均株価が4万円近くに達したものが、現在は、戻ったといってもその約4分の1です。この価格の差は何なのでしょうか。いろいろな分析が出ていますが、第一線にあった経営トップの目からは、その違いをどのように感じておられますか。
鈴木
もともと経済というのは、バブルを重ねて発展してきたという面もあるのです。つまり、信用創造で膨らんだものを引締め策でじわじわコンクリートのように固めていき、硬くなったところでまた信用創造を膨らませて大きくしていく、いわばバブルを少しずつ作りながら発展してきたという見方もできるのです。バブルというのは、皆がこの状態はずっと続く、しかもリスクはコントロールされているという幻想に陥っている状態です。ただし、80年代後半の日本のバブルは、コンクリートで固める前にあまりに膨らみすぎて破裂してしまいました。日経平均株価で見ると4万円近いところまでいって、今は1万円前後ですが、時価総額では半分ぐらいの水準です。新規上場や2000年の日経平均銘柄の大幅入替えのため単純な比較はできませんが、実質的には今の水準より4,000円ぐらい上にあるのだろうという感じがします。



川村
この3、4年、中国経済はバブルではないかという見方もあります。中国国内や日本の調査機関の見解などを見ると、バブルは多少あるけれどもソフトランディングできるだろうとしています。それに対して、日本のメディアの論調は、どちらかと言うと、中国はバブルが崩壊して大変なことになるという悲観論が多いようです。どちらが正しいのか判断が難しいところですが、中国経済の現状をどのように捉えられていますか。


鈴木
日本の80年代後半のバブルと、中国の現状とはまったく違うと思います。どちらかと言うと、中国は、池田首相の所得倍増計画の頃の日本に近いのではないでしょうか。まだ初期の離陸をしたという段階で80年代後半の日本とは成長のステージが全く異なります。もう一つ言えるのは、かなり個人的な感覚ですが、日本は人口が1億人で均一的な国民ですからすぐ沸騰します。一方、中国は人口が15億人ですからこれを沸騰させるには時間がかかりますし、成長過程として低いところにありますのでまだ成長余地は大きく、バブルが破裂するような場面ではないと思います。中国はまだまだ大きな潜在力を残していると思っています。
薛軍
ユーロ圏の危機や新興市場の不安定性などいろいろな要因から見ると、2012年は先行きの大変不透明な年と言われています。日本有数の証券会社の会長として、日本経済、世界経済についての見通しを伺えますか。
鈴木
問題はいろいろありますが、トータルでは私は今年をかなりポジティブに見ています。一つはアメリカの景気が回復してきていることです。失業率を見ると、9.9％であったのが8.3％まで着実に下がって来ていますから、アメリカ経済は順調といえるのではないでしょうか。ただ、リーマン・ショックで失われた800万人以上の雇用は、2年半近くかけてもまだ回復できていません。NYダウはリーマン・ショック前を上回ってきてはいますが、必ずしも全面的に楽観できるわけではありません。ヨーロッパでも、ECBが昨年12月に3年物の大量の資金供給を行いました。ユーロ圏危機はソブリンの問題ではあるのですが、結局は金融機関の経営問題であり、皆が恐れているのは金融機関の突然死です。それが、ECBの潤沢な資金供給によって、流動性に関して安心感が広がりました。また、ギリシャもいろいろな融資条件を受入れており、それが本当に実行されるのかという問題はあるにせよ、最も厳しいところは過ぎたのではないかと考えています。こうした外部環境の中、日本の株式市場は久しぶりに賑わっています。外国人投資家も、1月から2月前半までで6,000億円程度買越しました。為替も、円高は一応ピークを打ったのではないかなと思います。今年は発射台が低いこともあって、日本市場は右肩上がりの動きになっていくのではないかと考えています。加えて、20兆円近い復興資金が真水で出てきますから、このインパクトも大きいと思います。
薛軍
先ほど経済はバブルを膨らませながら成長したといわれましたが、リーマン・ショック以降、世界のあちこちで現代的な成長のスタイルは終わったのではないかと、いわゆる資本主義の終焉という問題が提起されています。化石燃料を完全に代替できる新しいエネルギー資源が開発されたとしても、もう高度成長はできるものではないと考えられていますが。
鈴木
エネルギーに関して一番問題になっているのが、原子力発電の問題です。最悪の場合にコントロールが効かないという大きな問題を抱えていることは確かですが、今すぐそれに代わるものはあるのかというとそれはないわけです。したがって、原子力とは並存して行かざるをえません。将来的に、例えば風力やソーラーでの発電を増やすとしても、あるいはまったく違うエネルギー源が発明されたとしても、原子力に最大限の安全対策を施して併用していくのが、現実的だと思うのです。液化天然ガス（LNG）の利用を増やすというのも、二酸化炭素を大量に排出するものは抑制するという論調からは逆の方向に振れているように見えます。行くたびにビルが増えていた上海では、電力が不足してビルを煌々と照らすことができないという話を聞いたことがあります。中国も電力に関しては、需要の伸びがあまりに速く供給が追いつかないようです。電力というのは、水や空気のように生活に不可欠なものですから、突然止まったりすると大変なことになりますので、供給にある程度の余裕も必要です。エネルギーに関し、どの方向を目指すべきかという哲学は必要ですが、今あるものを全部否定してしまうのは困難ですし、またするべきではないと思っています。






川村
世界経済全体が伸びていくと同時に、調和を図っていこうという動きも最近は非常に強くなってきたと思います。こうした中で、中国では和諧社会ということが盛んに言われています。ところで、大和証券グループの「大和」の意味を繙くと、これは「和諧」ですよね。


薛軍
そうですね。平和は、小さい和、中和。御社の名前である大和は、和諧の社会、社会全体の平和ですね。
鈴木
そうですね。
薛軍
バブルのようなスピードの経済成長は、もう成立しないと思うのです。むしろ、エネルギーの面等を見ても、持続可能な発展あるいは調和のとれた社会の実現がとても大事だと思います。
鈴木
その通りだと思います。ただし、中国と日本とでは成長の水準は違います。中国における安定成長は、将来的に5、6％程度になるのではないかと考えています。それでも日本からすればものすごい高成長です。やはり成長過程にあるところは全然違います。しかし、中国が10％成長を続けていこうとすると、どこかがいびつに成長し歪みがくることは避けられません。したがって、中国が調和のとれた社会を目指すのは当然と思います。国の行き方はそれぞれですが、各国とも調和のとれた姿を目指していかなければならないのではないでしょうか。



薛軍
今は日本の大学に勤務していますが、昔は日本の会社に勤めていました。その経験に照らすと、日本の大学生はとてもおとなしいと思うのです。ところが、彼らが一旦会社に入るとすさまじいパワーを発揮します。会社組織が、どのようにしておとなしい大学生を企業戦士に変えることができたのかを、お聞きしたいのですが。


鈴木
現在は、少し変わりつつあります。それでも、我々の時代と今とでは少し違いますが、若い人が1年も経たないうちにすごい活躍をするのを目の当たりにします。それには、お互いの仲間意識、横の繋がりという面が強いと思います。その関係の中で、上司は下の人間をいかに育てるかという感性が育まれるのです。先ほど「和諧」という話が出ましたが、こうした関係性を通じて会社に対するロイヤリティが高まってくるのです。それをどの企業も意識しています。私が会社に入ったときは、朝から晩まで働き、帰って寝るだけという、要はお金を貰うからには身も心も会社に捧げますという時代でした。今はそこまではいきませんが、伝統として会社は社員とともにという面があります。一時そういう関係性を今の人は好まないというので、こうした伝統が追いやられていたのですが、かなり復活してきています。やはり、会社の原点はロイヤリティにあるのだなと思います。日本の会社には、社員の強い結びつきを作ることによって、人間の能力を引き出していく力があると私は感じています。
川村
最後にお聞きしたいのは、大和と中国の縁が30年を超えるにいたり、また2012年は日中の友好関係が結ばれて40年という記念すべき年になるわけですが、30年後あるいは40年後といった遠い将来を考えたとき、今後の日中間の経済面での交流、付き合い方についてどう考えておられますか。
鈴木
中国は高成長を続け、なお大きな成長の余地を残しています。大和証券は、今、アジアをホームマーケットとして考えるコンセプトで動いています。そして、アジアの要はやはり中国ですから、中国には多くのヒト・カネ・モノを投入していきます。日本にとっての幸運は、世界で一番成長しているのが、中国を中心とするアジアであり、それが地理的に非常に近いことです。また、日本が歩んできた道は、どこの国にとっても、ある意味で非常に参考になると考えています。こうしたら上手くいく、こうしなかった方がよかったということをも含めて、一緒にいろいろなことを研究していけるのではないでしょうか。一方で、日本には個人の金融資産を含めた資金が潤沢にありますので、アジアや中国の企業が資金調達したいときには、ジャパンマネーは大きな魅力になってくるでしょう。ですから、地理的にも近いし、きちんとした関係を結んでいけば、30年後、40年後も良い関係でいられると私は思っています。
川村
大変勉強になりました。本日はお忙しい中大変ありがとうございました。
薛軍
ありがとうございました。
鈴木
ありがとうございました。
]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第12回 民間同士、政府同士がウィン—ウィンの関係を保つことが交流の深化に</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/12_20120412.html</link>
			<pubDate>Thu, 12 Apr 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        川村
今回は、大和ハウス工業の樋口武男会長をお招きしています。初めに、中国で住宅建築に進出するようになったビジネス展開のきっかけ、あるいは経緯についてお話を伺いたいと思います。
樋口
中国とのつながりは、当社の創業者が1972年の日中国交回復の年に、中国の段通や竹箒といったような特産品を大量に仕入れてきたことに始まります。その後、1985年に外国人用の社宅として、上海で戸建住宅やマンションを造り賃貸経営をスタートさせました。それを、北京、天津、大連と拡大してきたのです。環境ビジネスを含めた他の分野に展開してきたのはここ5、6年のことで、大連で「頤和香樹」、「頤和星海」といったプロジェクトを中国企業と一緒にやっています。
川村
中国と日本とでは商売の仕方、慣行に違いが多い中で、苦労されたことも多いと思いますが。



樋口
今は中国が一番大きいのですが、グローバル展開の一環でいろいろな国で仕事をしてきました。政治も違いますし、どこの国へ行ってもいい面と悪い面とが両方あります。中国のいいところは何かと言えば、共産党一党支配ですのでスピードです。高速道路の整備でもあっという間に日本を追い越してしまいました。新しい街を造るのでも、新都心として造られた蘇州園区もそうですが、全部無電柱になっています。また、蘇州園区の40％は緑地帯です。中央政府も地方政府も環境にものすごく神経を使っています。そうしたスピードは非常にメリットのあるところなのですが、逆に言えば、規制がパンと変わるわけです。ですから、我々としては、良さは良さとして動きに乗っていくとしても、一方で中央、地方とも政府の方針を早くキャッチしておくことが大事だと思います。


薛軍
中国政府に加え地元には地方政府の規制があり、外国人投資家にとっては理解しにくいところが多かったのではないかと思うのですが、どうでしたでしょうか。
樋口
一例で、急に建築規制が出ます。工事が後半になった頃に、例えば「雨戸を付けなさい」となる。工事がかなり進んでいると、二重の作業になりますよね。また、金融規制もいっぺんにパッと窓口が閉まります。ですから、地方政府とよくコミュニケーションを交わすということが大事だと思います。
川村
中央政府の規制と地方政府の規制とがぶつかるようなことはあるのでしょうか。
樋口
中央政府と地方政府とがぶつかったら、それは中央政府が勝つでしょう。圧倒的な権力を持っているわけですから。だから、両方の政策の進め方をいかに早くキャッチするか、ネットワークを張っておくということが大事だと思いますね。



川村
日本における80年代から今日に至る、バブルの発生、ピーク、崩壊、そして収拾といった中での体験はどんなものだったでしょうか？


樋口
創業者の経営哲学は、何をしたら儲かるかという発想で新しい事業を起こすべきではないということでした。新しい技術で新しい商品を作り、新しいマーケットを広めていく、そして、それが世の中の人々に役立つものかどうかをまず考えるべきだとしていました。倉庫、仮設住宅に使われたパイプ製のパイプハウスが創業商品でしたが、これもその考えから出たものです。1950年のジェーン台風では、家も何もかも倒れたあとに竹やぶと稲が倒れず、そのまま残っていました。竹や稲をみると、中は空洞で丸い、これが強さの秘密ではないかと気づいたのです。また、建物の材料として森や山の木々をどんどん伐採していくと、水害その他の災害を大きくします。そこで、木に代わる材料として鉄を選び、パイプを構造用鋼管として使う建物を開発したのです。現場の知恵をもとに、世の中の役に立つ、新しい独創的な商品作りをしたわけです。その次が、昭和34年のミゼットハウス（プレハブ住宅の原点）ですね。創業者が川で鮎釣りをしているときに、子どもが夕方まで帰らないで遊んでいるので「帰って勉強せんか」と言うと、「家に帰っても勉強する部屋はないし、自分の居る場所もない」と言うので、「この子らに勉強部屋を作ってやらないかん」という発想から商品化につながっていったのです。徹底した現場主義ですよ。だから、現場に出ていろいろな人に会いにいきますし、若い人にもそれを推奨していました。それが、現場の声として、トイレや風呂がつけられないかというお客様の要望を汲み上げることになり、プレハブ住宅の開発につながるのです。そして、1962年にダイワハウスA型というプレハブ住宅を出しました。発想の原点が現場にありますから、バブル時にも、土地さえ買っておけば間違いないというやり方を当社はとらず、大損することもありませんでした。
川村
将来の実際の需要を見極め、消費者、ユーザーのためになることを追求する、短期の売買で儲けようということなく、本当の需要に基づいたビジネスを展開してきたので、バブルのもたらすプラス面もマイナス面もあまり影響しなかったということですね。



薛軍
マクロ経済の面では、日本でバブルが形成されるときと中国の現在の状態に非常に類似点が多いのです。日本の教訓を活かさないと、中国は必ず日本の不幸の後を追い、悲惨なことになるという議論が、中国国内でも日本でも多々見られます。この点についてはどうお考えですか。
樋口
日本より中国の方が貧富の差は激しいと思います。沿岸部の人口が6億人を超えたと言われていますので、住宅はおそらく2億戸ぐらいは必要でしょう。ところが、1998年以降今までに建設された住宅は約8000万戸強ですから、まだまだ需要は強いはずです。



薛軍
都会部に住んでいる中国の若者は、一生お金を貯めてもなかなかマイホームは買えないのです。そうなると社会問題にもなります。日本でも、大都会で昔同じ状況があったと聞きましたが、すると例えば仕事への意欲が小さくなる、社宅がないと人を募集できないとか、弊害が出てきませんでしたか。


樋口
日本でも確かにそういう時期がありましたが、今社宅を持っている会社は少ないですよ。持家もしくは民間の賃貸住宅に入る人が大半です。また、最近の若い人は1カ所に住み着くよりも、ライフスタイルに応じられる賃貸の方がいいという人が増えている傾向がありますね。それで、我々の手がけている、賃貸住宅などへの需要は意外と多いのですよ。
薛軍
今の中国の普通の意識からは、マイホームは必ず押さえないといけないものですが、それが手に入らないとなると生活スタイルなどが変わってくるのではないかと思うのですが。
樋口
我々が中国で今住宅を建てているところは沿海部が中心で、富裕層の方の購入が圧倒的に多いのです。けれども、いずれ貧富の差もうまく収めていかなければなりません。日本の場合は、住宅供給公社というかたちで地方を含め住宅取得を後押していきました。
川村
日本はどんどん少子高齢化が進み、福祉・介護のニーズが高まってきています。中国もしばらくすると日本の10倍の規模でそういったことが起こります。高齢化社会に向けた新しい対応について伺いたいのですが。



樋口
1989年にシルバーエイジ研究所というのを作りました。病院・診療所、特別養護老人ホーム、老人保健施設、グループホーム、デイサービス・デイケア施設など、一連のものを3,000件以上も建設しています。有料老人ホームも熱海で経営しています。2011年5月に一般社団法人高齢者住宅推進機構という組織ができましたが、ここでは、従来の高齢者専用賃貸住宅とか高齢者向け優良賃貸住宅といった施設を造ってそれに入ってもらうという考え方でなく、住み慣れた自分の家で安全安心が確保できるようなサービスを提供していくという方向を目指しています。高齢になってから知らないところへ行きたくないというのは、人間の心理だと思うからです。そうすると、自分の家で安心して住んでもらえるようなサービスをどのように提供するかという研究を、もっと進めていこうというのが高齢者住宅推進機構なのです。これからいろいろな研究を日本で行っていくわけですが、高齢化が進む中国、韓国とも一緒に研究していかなければならない問題になると私は思っています。それで、日中間ではこれからいろいろと研究の打ち合わせをしましょうということになっているのです。


薛軍
中国でもそういう需要が高まっていくとみているのですね。
樋口
民間同士で実務に沿ったかたちで交流が進んでいくことは、非常にいいことです。中国も世界第2位の経済大国となったのですから、世界のマーケットを牽引していく役割があるわけです。だから、グローバル・スタンダードというかたちの中で、日本も含めて、ウィン-ウィンの関係を民—民で構築していき、その後は国と国のコミュニケーション、連携を図るというかたちで、官民が一体になって進むべき方向性を明確にしてやっていくことが重要です。これは、対中国だけでなくどこの国とでも共通事項だと思います。
川村
日本の場合、リーマン・ショックから十分に立ち直れないうちに、東日本大震災という大きな災害が来た上、ヨーロッパ・アメリカの経済も危険水域突入で、国内経済は大変な状況です。今、こういう思い切った経済対策を打てば効果があると思われるようなものはないでしょうか。
樋口
業界団体の会長として民主党に陳情に行ってきました。平成24年度の税制改正要望として、10項目ぐらいあります。最初に、今のような経済状況の中では景気活性化策というのが非常に大事ですと申しました。さらに、裾野が広い住宅関連にもう少しインセンティブを与えて、需要を喚起することを考えてください、例えば、住宅着工が10万戸増えれば40万人の雇用を生みます、直接及び間接、また誘発需要を含めると、経済効果は5兆円に上り、国の税収は6,000億円増収になりますとデータを積み上げました。それを議員の方に説明し、今は増税をするのではなく、景気を良くして経済を活性化させることによって税収を増やすというかたちを取るべき時期ではないですかとお願いしてきたのです。



川村
住宅着工は景気指標として我々も注目しています。住宅投資を刺激した場合には、需要者としてはシルバー層が多いのでしょうか、それとも結婚後5～6年で子どもができてという所帯なのでしょうか。



樋口
それについてお願いした項目もあるのです。例えば、贈与税です。住宅に関する生前贈与について2010年は1,500万円までが非課税でした。これが2011年は1,000万円、2012年は拡大されて1,500万円となります。国民の個人の金融資産が1,400-1,500兆円の巨額に上るのですから、お金を持っているおじいちゃんやおばあちゃんが、全部資金を出して子どもや孫に家を買ってやれば、今言ったような経済効果につながってくるのではないでしょうか。国の財政を痛めずともできることですので、ぜひ増額並びに延長をお願いしますと説明してきました。そもそも国民の持っている1,400-1,500兆円のお金は、税金を払った上で貯めたお金でしょう。それなのに、相続されるときにまた税金がかかってしまいます。むしろ、個人がもっと豊かになるように、子ども・孫への贈与を5,000万円まで認めて景気を活性化させた方が、雇用にもつながり、全てにハッピーとなるのではないでしょうかとお願いしてきたのです。


川村
日本の場合、世代構成がだんだん高齢化してきて、人口自体も減っていきます。そうすると、マーケット全体のパイはどうしても小さくなります。他方で、アジア、例えば中国も高齢化を迎えるとはいっても潜在的なマーケットとしてのパイは非常に大きいような気がします。
樋口
当社の夢である2055年の売上高10兆円に向かって進もうということで、事業を展開しています。しかし、売上高を10兆円にするためには、内外の売上比率を7対3にしなければならないでしょう。もちろん海外が7です。今国内の人口は1億2,800万人で、世界は70億人です。2055年になると、世界の人口は95億人前後と約25億人増えます。しかし、日本の人口は9,000万人前後に減っています。それも生産労働人口は全体の50％ぐらいになることを考えると、いきおい海外へそれだけの力を振り向けていかねばなりません。ただし、グローバルに展開するためには、派遣される人材が英語もしくは中国語を勉強しておかなければコミュニケーションも交わせませんが、当社では海外赴任希望が378名いて、そのうち「すぐにでも海外に行きたい」というのが220名いました。その中で、「3年後にぜひ行かせてほしい」という47歳の女性の管理職には感心させられました。理由に「3年後に息子は社会人として独立する。50歳からの自分の人生で、もう一度チャレンジしたい」とあったからです。頼もしいでしょう。
薛軍
2010年からの金融引締め政策で中国の不動産市場は冷え込んでいます。おそらく2012年も引締めは続けられるでしょうが、中国政府の政策についてのコメントをお願いします。
樋口
引締め政策については、日本も欧米も同じ道を歩んできたと思います。伸びすぎたら抑制する、落ち着いたらまた成長戦略を採るというふうにして、長期にわたる安定成長を考えれば、採らざるをえない政策であろうとわたしは思います。ですから、引締めがずっと続くわけではなく、また成長に向け舵が切られるはずです。つまり、マーケットはのこぎり型で成長していくということです。また先ほど触れたように、沿岸部で2億戸の家が必要なのに1998年から8,000万戸しかできていません。一時的にバブルになったことから金融が抑制されていますが、そのままでは我々も中国本土のデベロッパーも困ります。そうした企業をつぶすことはまた失業者を増やすことになりますから、政策はさじ加減を加えながら運営されざるをえず、やはりマーケットは拡大していくと考えています。沿岸部はそうですし、農村部ももう一つの大きなマーケットとなるでしょう。一気には進まないでしょうが、これからの農村部での住宅・住環境の整備を考えると、一つの方策として、日本の例でいうところの住宅供給公社や住宅公団というような制度を導入するなど、なんらかの政府の手助けも加わって、進んでいくものと思います。
川村
最後に定番の質問ですが、今後の経済、文化も含めて日本と中国との交流をさらに発展させていくために、ぜひ留意したいあるいはすべきであるという点について、ぜひ伺いたいのですが。



樋口
これは、お互いに先入観で物事を判断するのではなく、現地へ行ってコミュニケーションをしっかり交わすということが必要です。それに加え、中国だけの問題だけでないですが、政府間の連携・コミュニケーションをよく取ってもらい、手をつなぎあってウィン—ウィンの関係が保てるようにすることが大事です。それによって、今度は民間企業もそれぞれに交流が深まっていくという連動がないと、なかなかうまくいかないと思いますね。


川村
本日はご多用の中大変ありがとうございました。
薛軍
ありがとうございました。
樋口
ありがとうございました。
]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第10回 助け合いや絆の強まりを新たなネットワークに拡げ、岩手の復興をアジアの発展へ</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/11_20120308.html</link>
			<pubDate>Thu, 08 Mar 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        


川村
本日は、岩手県庁に達増拓也知事をお訪ねしています。今復興・復旧に努力されている忙しい中で、いろいろ貴重なお話を伺えればと思っております。まず、岩手県の東日本大震災、大津波による全般的な被害の状況をお教えください。


達増
平成24年2月13日現在、死者4,670人、行方不明者1,315人、そして家屋の全壊・半壊が24,746棟に上ります。岩手県は津波の常襲地ではあるのですが、過去の大津波に比べても大変大きな被害でした。産業関係でも、水産業で5,649億円の被害が出ましたし、内陸の津波被害を直接受けなかった所でも、土木や農林関係の被害に加え、物流面の混乱、観光関係の風評被害など、被害は岩手県全般に及んでいます。
川村
岩手県は被害からの復興・復旧に際し、「いのちを守り、海と大地と共に生きる ふるさと岩手・三陸の創造」という大きな理念・スローガンを掲げられました。この理念を具現化する復興計画のポイントとはどんなものでしょうか。
達増
最初に、人命が失われるような津波・災害は今回で終わりにしようという決意の下に、防潮堤、防波堤といったハード面の整備に加えて、避難訓練、防災教育といったソフト面の対応も充実させ、安全を最優先に確保していきます。次に、町の形をただ作ればいいというだけではなく、人が暮らしていく、すなわち働いて稼いで生きる場を作っていく人間本位の復興がなされなければなりません。それには、岩手の海及び大地の恵みを活かしていくことが必要だと思ったのです。そして、地域資源を活かしながら、その加工や流通までも取り込んで6次産業化（1次（生産）×2次（加工）×3次（流通、販売））していく、そういう産業振興に向けた施策が復興計画の中身になっていきます。
薛軍
現時点での復旧・復興に関する進捗状況はどうでしょうか。
達増
岩手県の復興計画は8ヵ年計画です。まだ最初の1年が終わったところですので、復興は初期の段階です。海の側は更地のままでまだまだこれからという所もありますが、応急復旧措置で、仮設住宅の建設を進めましたし、各々の町の中や町と町を繋ぐ主な道路はほぼ復旧しています。水産関係の設備についても直せる所から直して、工場も水産加工業を中心にどんどん直していくということで、復旧が進んできました。また、仮設店舗や仮設商店街、観光関係の施設についても、とにかくできるところから手をつけて直していくという1年間でした。
川村
復旧活動は、まず地元である岩手県、各市町村が担うことになりますが、同時に国も関わってきます。国と地元自治体との連携は、どう機能したのでしょうか。



達増
県や市町村からの要望や提案について、かなりの部分は国に対応してもらいました。ただし、被災直後を思い出しますと、国土交通省関係の道路の復旧が典型的ですが、ひとつの省庁で話が済むことについては、各々の省庁に迅速に動いてもらったと思います。一方で、ガソリン不足のようにモノの確保に輸送が絡んだりして、問題が複数省庁にまたがると上手く対応できなかったり、国の指導力、調整力がいまひとつと思うところもありました。第3次補正予算の編成や復興庁の立ち上げについても、もう少し早くできたのではと思っています。


川村
私が感心しますのは、復旧での立ち上がり段階における計画策定やいろいろな組織体の組成で、岩手県は速やかな対応をされたと思うのですが、素早い対応が可能であった秘訣は何でしょうか。
達増
市町村と県との連携が密接にとれたことによると思います。典型的なのが仮設住宅の建設でした。被災地で一番先に着工し、一番先に完成したのが陸前高田市だったのですが、これは、県から担当者が陸前高田市に行き、市職員と一緒に取り組み真っ先に建てることができました。町長さんが亡くなるなど町役場の機能に大きな被害を受けた大槌町でも、県の担当者が町の担当者と一緒になって用地確保をしながら、仮設住宅の建設を進めました。
川村
厳冬となった今年、仮設住宅における暖房は問題なく確保できているでしょうか。
達増
12月に私も一泊してみました。備付けのエアコンに、持ち込んだ石油ストーブなどを組み合わせると、かなり暖かさは確保できます。完成後の手直しもあって、約13,000戸の岩手県の仮設住宅には、すべて防寒対策を整えました。



川村
健康、医療面はどうでしょうか。
達増
健康、医療の面でも、仮設診療所をできる所から立ち上げていまして、市町村の枠を超えた「医療圏」というエリアで対応する方式で、何とか被災地の医療ニーズに対応しています。本格的にそれぞれの地域の医療機関は再生していかなければならないと思っています。
薛軍
知事が、この1年で最も苦労されたあるいはされていることは何でしょうか。
達増
最初に苦労したのは、岩手県全体が停電になり、通信設備も使えなくなったことで、情報が途切れたことですね。沿岸の津波の被害を受けた市町村の状況がなかなか分からず、それが一番困りました。そして、今困っているのはマンパワーの不足です。特に専門家が足りないのです。建設土木関係の専門家や福祉関係の専門家も足りず、全国から広く応援を求めているところです。
薛軍
知事は、孟子の「浩然の気」を大切にされていると聞きましたが。



達増
するべきことをきちんとしていけば、そこに無限の力が湧いてくるというのが、浩然の気という言葉の意味だと思っています。災害からの復旧・復興という中でも、やらなければならないことをいち早く見つけて明らかにし、それを計画としてまとめ、予算や事業というかたちにして進めていけば、そこに大きな力、すなわち地元の底力が引き出され、また国からの支援を始めボランティアの皆さんの協力も含めた外からの力も加わって、復興を果たすことができると思っています。


川村
岩手県は復興特区の申請をされましたが、その内容を教えて下さい。
達増
最初に申請したのが、保健・医療・福祉に関する特区です。介護施設では、医師の必要配置数を緩和してもらわないと、被災地やそれを支援する内陸の方で十分な体制を整えることができませんので、それはすぐ認定されました。ほぼ時を同じく産業再生の特区も申請しています。これは、被災地やその周辺での新規立地に際し税制上の優遇措置を受けられるという特区で、近々認定される見込みです。
川村
東京での復興セミナーには相当数の人が来場していましたが、知事の講演での熱意に打たれて、岩手県に来てなんらかの産業に関わろうという人も増えてくるのではないでしょうか。
達増
土地も人も余力がありますので、ぜひ岩手県で事業を始めてほしいと思っています。
川村
中国や海外からという可能性はどうなのでしょうか。
達増
それも大歓迎です。今回の大震災では、中国やアメリカ、イギリスから緊急援助隊に来てもらいました。また、海外からの義援金や寄付金、緊急支援物資の送付、そしてボランティアによるいろいろなお手伝いがありましたので、岩手県民も改めて国際的な協力が大事だと、復興についても国際的な協力を受けながら実行していかなければという意識が浸透したと思います。ですから、岩手県への海外からの新規投資や事業拡大は大歓迎です。
川村
世界文化遺産となった平泉など、海外向け、特に増加する中国からの観光客に岩手県の豊富な観光資源をもっと紹介されたらと思うのですが。
達増
2年前の上海万博に、岩手県からも南部鉄瓶の展示を主に出展しました。この他にも、岩手県の美味しい食べ物、豊かな自然、伝統工芸品などに、中国、アジアを始め海外の皆さんが触れる機会が増えていってくれればと思っています。



川村
被災地の厳しい現場における日本人の助け合い精神や絆というものについて、感じられたことはありますか。


達増
予想以上の大勢の方々がボランティアで現地入りしてくれました。また、義援金、寄付金や物資も想像以上に届いています。私は沿岸の被災地を回って、仮設住宅に住んでいる人たちと話をする機会があるのですが、皆さん支援に対する感謝の気持ちを非常に強く持っています。行政に対するだけではなく、ボランティア活動や海外からの援助を含めた支援全体に対する感謝の気持ちが強くあったこと、これと支援する側の善意とが上手く結びついて絆になっていると感じます。
薛軍
救援物資の受け取りでも列を乱すことなく並んでいる姿や助け合いの姿が報道され、すごい国だなと感じました。
達増
発災直後は、沿岸の半島部の端の方にある集落には食料も届かず、少ない食べ物を分け合うような避難所もたくさんありました。困ったときほど力を合わせようという感覚は、家族の間の自然な気持ちです。それが隣近所へ、同じ村や町へと広がり、また県やさらに全国にもと、絆になって広がっていったのだと思います。そういう気持ちは、隣国である中国と日本の間にも育てられると思いますし、実際に中国からの支援も受けました。研修で大船渡市の水産加工場で働いていた中国の皆さんが、地元の人たちと食料を分かち合い、暖房をともにして避難生活をしている所にも行きまして、「加油」と声を掛けてきました。困難に立ち向かう助け合いは、中国の皆さんとも一緒に実行していくことができるものだと思います。



川村
今回の震災で経験した行政と住民一人一人の危機対応について、今後の教訓として活かしていかなければならないことは何でしょう。
達増
17年前の阪神・淡路大震災も大きな教訓になっています。その後、耐震性に対する意識が徹底されてきました。このため、今回の地震では人命に関わる被害はほとんどなく、岩手県に関しては一つもありませんでした。一方、津波は問題でした。岩手県はもともと津波の常襲地で避難訓練も重ねているのですが、過去の大津波のときでもここまで水が来なかったとして避難していなかった所でも、実際には水が来て流されたということが起こりました。ですから、津波は決して過小評価してはなりません。今まで経験したよりも大きな津波が来る危険性が常にあると考え、避難を徹底しなければならないと思います。今回も、小中学校のように普段から訓練をしているところではスムーズに避難ができました。特に、岩手県では学校関係でまとまって避難した人からは一人も犠牲者が出ていません。やはり訓練が大事です。それと、水や食べ物といった備蓄ももちろんですが、防災の拠点となる公的施設には停電や通信の途絶に備えた自家発電や衛星電話といった設備も充実させていかなければなりません。
薛軍
中国では、日本の中学校や小学校の校舎は官舎より丈夫だと伝えられていますが、それは本当ですか。また、政策的に避難所として整備されてきたのでしょうか。
達増
新しい校舎は大きな地震でも大丈夫なように耐震設計で作られています。また、古い校舎も耐震強度が弱い所はそれを補強するということが行われています。学校校舎の耐震強化は、阪神・淡路大震災以降に本格化しましたが、予算を確保するのが大変なので、古い建物は補強作業を行っている最中です。
川村
東日本大震災を境に、日本の政治や経済のあり方、方向性がこう変わってきたのではないか、あるいはこういう方向に行くべきではないかという点について、知事という立場を離れてお聞かせください。



達増
草の根のレベルに近いところほど、さまざまないい方向の変化が多く見られると思います。行政でも、市町村間の協力が大きく発達してきました。大震災前にはなかった大規模な市町村間の協力、例えば名古屋市が陸前高田市に何十人も人を派遣するといった動きが被災後に起きています。これは都道府県間でも同じで、岩手県には多くの都道府県からたくさんの職員を派遣してもらっています。また、いろいろな団体、企業、個人のボランティア活動が、twitterやFacebookといったソーシャル・メディアの助けも借りて、非常に伸びてきていると思います。反面、国家レベルになると、そもそも災害対策本部や原子力事故対策本部をきちっと立ち上げて運用できなかったような感じがします。縦割りでの各々の動きはそれなりに良かったのですが、政府として横断的に調整力や指導力を発揮すべきとなったときに、うまく対応できていなかったように思います。電力の問題も含めて、個々の企業は涙ぐましい努力や英雄的な努力によって、いろいろ対応してきていると思うのですが、一方日本全体としてのエネルギー需給や産業政策のあり方に関しては、ビジョンが定まらない状況ですね。これだけの大災害ですから、国家のあり方を再検討して変えるべきところは変えていかなければならないと思います。そこが上手くできていないなと感じます。復興庁も復興対策本部がそのまま復興庁になっているところがありますが、新たに復興特区や復興交付金といった制度が動き出しましたから、それらの運用でさらに復興を進められるよう、今までになかったこともしてくれるのではという期待は持っています。一方で、そもそもここ10年、20年ぐらいのスパンで、一種の国家の店じまい、棚卸しのような流れがあったと思います。例えば、道州制も何か新しいものを生みだすようなビジョンや具体策をともない進めるのならいいのですが、それがないままに今出てきている議論は、国でしてきたことをこれも止める、あれも止めるというふうになってきて、あとは個人あるいは地方の責任でとなっているわけです。そういう中では、今後の国家像を描く上で、日本国民として最低限こうしたことは実現していこうといった、国家レベルの議論が非常に薄くなってきていると思うのです。


川村
ここ何年か必ず出てくるのがいわゆる官僚批判ですが、知事は以前官庁に籍を置き、現在は地方自治体のトップにあるという立場から、率直な感想をお聞かせください。
達増
バブルの崩壊後に日本経済が立ち上がっていかず、格差社会化が進んでいるという状態は、一つには官僚主導の行政が機能していないということです。それに代わる政治主導の行政をしていかなければならないという話は昔からあったのですが、まともな政治主導のかたちを構築できていないというところに問題がありますよね。国民のニーズを踏まえ、政治が国の舵取りをきちっとし、官僚を使いこなし、一人一人によく働いてもらうということをすればいいのだと思うのですが。



薛軍
知事は外交官の出身でもありますので、アジアの人々に対し何かメッセージを頂けますか。


達増
まず、いろいろなかたちで支援を受けましたので、改めてお礼を申し上げたいと思います。その上で恩返しができるようになるためにも、一日も早い復興を成し遂げなければならないと考えています。ただし、復興にいたるには、今はまだ初期の段階ですので、引き続き支援や協力をお願いしたいと思います。そして、復興を果たした上で、アジアに貢献できる岩手県として、アジアの皆さんと一緒にアジア全体の発展に力を尽くしたいと思いますのでよろしくお願いします。
川村
最後に、今の海外へのメッセージとともに、ぜひお願いしたい、訴えたいということがありましたら、お聞かせくださればと思いますが。
達増
消費税増税あるいはTPP参加といった問題が、国会の議論でも中心になっていたこの1年だったと思いますが、知事の立場からはもっと復興のことに集中してほしいと思いますね。復興に際して、地域資源を活用していくという地に足の着いた経済成長戦略を考えていますと、TPP参加についての議論はかなり大雑把で観念的なように思えます。また、フリートレードも大事ですが、フェアトレードのような、生産者の顔が見えて消費者と結びつき、なお生産者に然るべき所得がきちっと残るようなネットワークを作り、それが実を結んでいくことも大事だと思います。ですから、復興の現場をしっかり見つめ深く考えていくと、日本全体のあるべき姿に加え、国際社会の中でどのようなかたちで発展していけばいいのかということも、自ずと見えてくると思うのです。
川村
大変お忙しい中、貴重なお時間をいただき本当にありがとうございました。一日も早い復興・復旧を心から祈っております。
達増
ありがとうございます。
薛軍
ありがとうございました。

]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第9回 多様な相手への深い理解が長期の暖かい交流の礎に</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/10_20120227.html</link>
			<pubDate>Mon, 27 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        


川村
中国で大変知名度の高い資生堂の前田会長にお越しいただきました。よろしくお願いいたします。最初に、資生堂という名前は易経に由来し、中国との間に深い関係があるのだなあという思いがいたしました。


前田
はい、資生は易経の一節に由来します。「至哉坤元万物資生」、全てのもの、あらゆるものが大地から生まれ、それが新しい価値を創りあげていくという意味です。もともと資生堂は西洋風調剤薬局からスタートしています。西洋の科学的な知見と東洋の哲学的な思想と、これらをハイブリッドで構成した新しい会社を生み出していこうという由来がその名前に込められ、それが我々の価値創造の根源になっています。私と中国との関係を申しますと、国内の化粧品事業を主に担当しておりましたのが、1997年に海外事業の中でも特にアジアの担当を任されて仕事に携わったのが中国とのそもそもの出会いです。資生堂自体は、すでに1981年から中国とのつきあいを始めていました。
川村
ちょうど30年ですか、中国進出30周年になるわけですね。
前田
そうですね。1991年に合弁会社を設立後、北京に工場と事業拠点を開設しましたが、将来の中国の発展を考え、次の拠点として上海の浦東地区にビジネス拠点を作り上げることに携わりました。その頃の浦東は見渡す限りの大三角洲で、川のほとりでは少しビルが建って金融センターが移ってきていましたが、我々が今ビジネス拠点に置いている所は全く何もないという状態でした。その拠点を作るときに、上海政府の方々にお世話になったのが私と中国との関係の始まりです。
川村
資生堂の場合は単なる生産拠点というよりも内販型の進出を行い、過去30年間の中国の改革開放後のすごい経済スピードに合わせそのビジネスを拡大してきており、すごいなと感じています。中国進出30周年ということで、この30年間の中国の経済発展をどんな風に見ておられますか。



前田
改革開放以降、すごいスピードとダイナミックさで中国は大きく発展をしている、これからも発展し続けるだろう、と我々は思っています。


資生堂が中国で事業を始めた30年前は、中国では女性も男性も人民服を着ており、女性が化粧するという雰囲気ではありませんでした。クリームや乳液が量り売りされている中で、化粧品がきちっとした価値のあるものとして認めてもらえるよう、最初は日本からほとんどを輸入し、その商品を北京屈指のホテル北京飯店などで、主に在中国の外国人女性の方に使ってもらうということをしていたのです。こうしてスタートを切ったのですが、中国政府の要請を受けたことから、国営の化粧品会社に技術供与をし、主にシャンプー、リンスといった商品を共同で開発し、資生堂の技術をいろんな形で提供してきました。それがほぼ9年間続くわけです。その後、1991年に合弁会社を作り、1994年には中国の女性向け商品（オプレ）を現地生産で展開することを始めたのです。まず沿海部のデパートを中心に拠点を広げていき、出店したデパートではほとんどシェア一位を獲ることができまして、商品が浸透していきました。2000年のシドニーオリンピック及び2004年のアテネオリンピックでは、中国選手団の公認化粧品として採用され、中国の方から国民的ブランドとして認められたのではないかと考えています。それ以降、化粧品専門店を中心に内陸の方にもビジネスを展開して、今では全省全自治区に及び、販売店数は5000店以上になります。
川村
現在の5000店以上にいたるまで、ビジネスはどんな感じで伸びていったのでしょうか。
前田
デパートは、オプレを取扱いいただくことで業績が良くなりますから資生堂を入れたいという要請がたくさん来ました。一方、化粧品専門店との取引は、資生堂のブランドを活用して、地域の一番店として地域のお客様から信頼できる拠点になってほしいと考え、2004年にスタートを切ったときには300店ぐらいの勢いでスタートすることができ、いたずらに急ぐことなく時間をかけて徐々に来て5000店というレベルに達しています。ただし、中国全土で見るとそんなに多くの数字ではないと思っています。
コーポレートブランドを大切にしながら、そこから生み出されるプロダクトがしっかりと認識されるにいたるには、我々が厳しい規律を持つとともに、お店の方にもそれを受け入れることがお店の価値を高めることにつながっていくという意識を持ってもらうことが必要と考えています。
薛軍
改革開放から30年、御社も中国に進出されてからちょうど30年になるわけです。最初の進出の頃には、販売活動を展開するときの苦労を含めていろいろあったと思いますが。
前田
進出したときには、まだまだ化粧品を使ってもらうという状態ではありませんでした。それが、経済発展とともに国民の生活意識と生活のレベルが非常に高くなってくると、化粧がお洒落から、身だしなみというところに一気に転換していきます。化粧をする人口もすごいスピードで伸びて、大変大きな需要が見込まれるようになってきていると思うのです。2010年度で化粧をする人口が1億人。2015年には2億人、2020年に3.5億人になります。その中で、我々は資生堂というブランドを憧れのブランドにしていきたいのです。そのために、特に接客のプロセスをとても大事にしてきたという歴史があります。第一印象はとても大事ですからね。我々は、中国現地の社員におもてなしの心というものの理解と促進を図り、定着させていくということに大変な努力を積み重ねてきました。






川村
日本人に対して日本の企業がやってきたようなおもてなしでも、中国の人にとっては別の受け止め方があるなどいろいろ違いもあるようですが、そういう点で苦労されたことはないでしょうか。


前田
経済の成長と生活レベルの向上に伴い、心の豊かさが非常に大事にされるようになっていきます。商品を買って消費するだけでなく、その物を通じ、あるいは物の購入・購買を通じ、心の豊かさを求めようになるのです。その過程で、おもてなしを含めて一人一人のお客様が高いレベルで満足し、そして購入して良かった、使って良かった、また使ってみたいと思ってほしいと考えています。
一つのエピソードですが、数年前に四川で大変大きな地震がありました。私たちと契約をしているお店も、壊滅的な被害を受け、若い女性の経営者のお店が潰れてしまいました。そのとき、お店を建て直すためにどれくらいのお金がいるだろうか、どれくらいの時間がかかるだろうかと考えるところでしょう。しかし、その経営者は、真っ先に、お店に来てくれていたお客様は元気だろうか、怪我をされていないだろうかということが心配になって、メールが開通したときに全顧客にメールと電話でお元気ですか、ということを確認していました。あるメディアのインタビュアーがなぜそういうことをするのですかと聞いたところ、お客様をいかに大事にしなければならないかを資生堂が教えてくれた。そしてお客様が元気でいるのであれば、また来てもらって美しくなるためのお手伝いをしたいと、彼女は涙ながらに言ったのです。



薛軍
従来の多国籍会社は、グローバルに展開するとき、プロダクト・ライフサイクルという方式をとってきましたが、最近はグローバリゼーションを前提としても、ローカリゼーションも大変重視しています。資生堂はグローバリゼーションとローカリゼーションのバランスをどうとられていますか。


前田
資生堂が海外展開するときに大切にしているポリシーが3つあります。ひとつは、自社のオリジナリティーを大切にすること。2つ目は、現地のリソースを最大限に活かすということ。3つ目は、良き企業市民としてその地に根付くということです。これはまさに、グローバリゼーションでもあり、ローカリゼーションとしての我々の基本的なスタンスを表している部分だと思います。現地の従業員が高い地位で企業の経営にあたっていくということも、その一つの実現であると考えています。
それから、ビジネスとしての展開だけではなくて、いわゆる社会的責任を果たすことも大事で、例えば砂漠化が進んでいる土地への植林を続けていたり、あるいは随所で美容相談会を開いたり、それからすでに6校を開校させた希望小学校の設立をこれからも続け、内陸部にも学校を建てて多くの方に教育を受ける機会を与えられるよう、お手伝いできればと考えています。
薛軍
中国人幹部の登用戦略はいかがでしょうか。
前田
中国の方の幹部への登用はかなり進んでいます。経営者層、中間管理職など、ほとんどと言っていいほど中国の方です。最高経営執行責任者はまだ日本人の場合もありますが、各々の部門を任せられているのは中国の方です。それも女性が多い。化粧品の販売ですので、女性の方が感性が豊かで、お客様に近い所でいろんな判断をすることができますからね。
川村
化粧品業界はブランドに対するイメージというものが大変重要だと思います。中国において高いブランドイメージを保っていくには、どのような点に留意していますか。



前田
販売の質をトータルでレベルアップしていくことが、イメージ戦略にはとても重要と思っています。もちろん洗練された広告も大事でしょうが、そういう意味で、5000店のお店と契約をするときに、お店の側に非常に高いハードルをお願いしています。それを了解されたところとだけ契約をするということなのですが、例えば、商品の陳列のスペース、場所、陳列の仕方、それからカウンセリング応対のあり方、顧客管理の仕方、経営のあり方、さらにお店の従業員への資生堂による教育の受講義務付けまでお願いして、徹底した教育をしています。こういう関係の中で、お互いがしっかりとしたビジネスをすることが、イメージを絶対汚さない、落とさないということであり、あるいはお店と一緒にお客様一人一人に資生堂が憧れの存在として認められるということなのです。ある種の厳しさをもって自己をしっかりと規律をしていくのが、ブランドを育てていく上でとても重要なことだと思います。それと同時に、ブランド価値の向上がステータスとなり、社員の資生堂に対するロイヤリティも非常に高くなりました。








川村
我々はつい中国という国を一つであるとして捉えてしまうところがありますが、中国の国内でも、商品へのニーズにはいろいろな違いがあると思います。そういう違いを克服するのに、例えば製品を少しずつ変えたり、販売方法を変えたりするなど、そういう苦労や工夫というのはあるのでしょうか。


前田
中国に研究拠点をすでに作っていまして、そこで中国の女性や男性の肌・髪や嗜好の研究をしたり、また古典的な美容法を文献研究したり、いろんな研究をしています。研究開発についても、いかに現地に根付くかを考えながら、まさにお客様を知るということを大切にしています。
そこからの知見では、例えば東北地方の方々は、寒冷地にいることからクリームや乳液に極めてリッチな使用感のものを好みます。それも日本人が思うリッチさより、ワンランク、ツーランク上のものです。それから、日本人が好む香りに柑橘系というのがありますが、中国ではあまり好まれず、それよりもフローラル系の香りが好まれます。従って、化粧品に配合、賦香する香りも、中国の方の嗜好をきちっと研究した上でつけているのです。メーキャップ一つをとっても地域地域によって少しずつ違います。それにも、現地の美容部員であるビューティーコンサルタントが、その地域のニーズにあわせてしっかり一人一人の美容相談に当たっています。
川村
中国は、バランスとかハーモニーを考えながら個人個人が豊かになっていくという方向に舵を切っています。すると、経済成長のスピードは少しダウンするでしょうし、個人への分配が重視されるようになる中で、次の30年を展望したときに中国市場をどのように捉えられていますか。
前田
化粧品産業も景気には影響されますが、中国全体で見たときに、化粧品を使う方々がどれだけ増えるかというのが、市場の広がり、ビジネスの広がりに直接つながってきます。経済が豊かになっていく中で、化粧に対するニーズは高まることはあっても減ることはないと思います。中国の人口が今13億人とすると、そのうちの6億5000万人が女性です。そうすると、2020年に想定される化粧人口を3.5億人としても、まだ半分でしかないと捉えることもできるわけです。
薛軍
中国以外の新興市場でのビジネスについてはいかがですか。
前田
当社は、インドやロシアなどの新興国にも進出しています。ロシアでは、2000年くらいから代理店で参入してきたのをつい最近100％子会社に切り替えたのですが、すると急速な勢いで資生堂のプレゼンスが高まって、業績も上がってきています。しかし、広大なロシアにおいて、全土に経営資源を投入していくかというとそれは大変なことになりますね。そこで、モスクワとサンクトペテルブルクという2つの都市に集中して経営資源を投下し、モスクワでナンバーワン、サンクトペテルブルクでナンバーワンになれば、それはロシアでナンバーワンということだろうと、そういう戦略を展開しております。
薛軍
ところで、偽物問題ではいろいろ被害があったかと思いますが、それを踏まえて中国側への提案や助言があれば是非教えてください。
前田
中国当局にも大変努力をしていただき、私たちと一緒になって摘発に努められたことで偽物は大分減ってきました。しかしながら全てが解決できたわけではありませんし、また新たなかたちでの模造品が出てくる可能性がありますので、常に当局と連絡を取り合いながら、また化粧品専門店から伝えられるいろいろな情報を合わせて、対応を図っていければと思っています。
川村
今後の日中経済交流の在り方について、中国ビジネスの最前線にあったという立場から見られて、今後の大事な点、留意点、あるいは課題について、最後にお話くださるとありがたいのですが。



前田
大事なのは、相手に対する理解度をどれだけ深くできるかということです。これが、とても重要だろうと思います。その中で特に、日本人あるいは日本企業がグローバル化を果たしていく上で、避けて通れない、あるいは克服しなければならない課題というのは、多様性への対応です。もともと日本人は歴史的にその点が弱く、鎖国を200年やってきた中では、異なる文化や考え方を理解し、そして認め尊敬し、お互いが共存していくという気持ちにはなかなかなりにくい風土が育まれてきました。それをいかに克服して、多様な他の国との共存を図っていくのかということが重要です。とりわけ、中国からはいろいろな影響を受けており、中国から学んだもの、教えてもらったもの、そして逆に、中国に日本がお返ししたものを含めて歴史的な交流が深く続いてきました。ですから、非常に分かりあいやすい国であるといえるし、漢字文化というお互いに共通するものもあります。そういった面で、理解をする心を持つということが、一番最初に我々が持つべきマインドではないでしょうか。もう一点は、中国とのつきあいとはショートタームで考えるものでは決してなく、長い歴史の中で一緒に歩んできた中国の方々と良い関係を長きにわたり続けていくということを考えると、百年の大計がとても大事なキーワードとなるのではないかと思います。


川村
本日はご多用の中、このコーナーに登場いただき本当にありがとうございました。
前田
こちらこそありがとうございました。
薛軍
ありがとうございました。
]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第11回 精神文化に立脚した尊敬される日本人へと意識改革が必要</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/09_20120220.html</link>
			<pubDate>Mon, 20 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        川村
本日の「亜太三人行」は、日本の政界を知り尽くしていられる、自由民主党の古賀誠先生においでいただきました。古賀先生は親中派、知中派ということでも著名な先生です。はじめに古賀先生の中国とのそもそものご縁を伺いたいのですが。



古賀
わが国にとって、中国は避けて通れない大国だと思います。私が政治の世界に入って薫陶を受けてきた宏池会では、特に大平先生が、日中関係の正常化を実現され、また、友好的な関係を築いてこられた大先輩です。そういう歴史的な流れの中で、中国との関係を私たちも重要視しています。個人的には、私は父親を太平洋戦争で亡くしています。あの戦争を経て、とりわけ中国とはいろいろな意味で改善していかねばならないところがありますし、またこちら側から中国に伝えなければならない問題もあります。靖国の問題などはその代表的なものかもしれませんね。そういう意味でも、中国との関係に私自身個人的な関心を持っていたのです。


川村
初めて中国を訪問されたのはいつごろですか？
古賀
私が初めて国会議員になった後、1982年、鈴木善幸首相の時だったと思います。
川村
それ以来30年近い中国との交流の中で、思い出深いあるいは苦労されたエピソードはありますか。
古賀
悪い思い出は一つもありません。訪問のたびにいろいろなことを勉強してきましたし、また、びっくりすることが多かったですね。行くたびに高速道路はどんどん伸びるし、自転車から自動車に代わるのもまたすごいスピードでしょう。日本の場合は高速道路を初めて供用したのが1963年、それから今日までどのくらい供用しているかと言いますとわずか9700キロメートル。中国は、初めての供用が1988年と言われています。私は2009年までのデータしか記憶してないのですが、それから21年で6万5千キロメートルです。恐るべきスピードですよね。それだけ見てもわかるように、思い出に残ることは、やはりすごいスピードでいろんな分野が改革され、そして発展、充実してきた、これが一番の驚きですね。それと次に、階級社会だな、とも感じました。例えば、列車を利用するにしても、駅のプラットフォームまで車で送ってもらうわけで、ちょっと日本では考えられないことですよ。
川村
このところ、経済危機を含め世界中が難しい問題に囲まれている中で、中国は政府の動きが非常に早いし、政策の出力も大変大きい。それが今のところうまくいっています。政府のリーダーシップ、指導力の強さを感じます。反対に、失われた20年などといわれる日本では、政治的なリーダーシップがどんどん弱くなってきているのではないでしょうか。特にこの数年は、どうも日本人全般が政治に対してあまり頼れないと強く感じているような気もします。そうした政治のあり方についてはどんな風に思っておられるのでしょうか。
古賀
ご指摘の通りだと思いますね。そのことは非常に反省していますが、中国と日本では政治の体制が違うことは否めません。中国の場合は一党によって政治体制ができています。わが国の場合は、民主政治を政治の基本にし、経済は市場主義を基礎としています。そういう体制の違いが日本のリーダーシップの不足につながっていると思います。民主主義というのは、時間とカネがかかるものなのです。それに加え、日本の国は発展途上を過ぎて成熟期を迎え老齢化しつつある、そういう環境も一つの要因となっているのではないでしょうか。
薛軍
日本の国内政治の面からご覧になって、日本の失われた20年の原因はどういうところにあるのでしょうか。



古賀
日本の国の方向付け、すなわち、国民の幸せという価値観が多様化したなかで、日本の固有の文化、特に精神文化、他の世界の国にない家族と家庭を国の基本におくということがもっと早い時期に気づかれるべきで、それへの変化が、遅れたのではないかという気がします。ものやお金の豊かさが幸せの尺度だとする考え方は、日本が高度経済成長時代の中で誤ったもののひとつだったのではないかと、私は思います。本当の日本の国、こんな小さな資源のない国の国益というものが何かと言うと、それはお金ではなくて文化なのです。つまり、あの国はすばらしいと、日本人の精神を世界の国が尊敬してくれるというところへの価値観の切り替えが、ちょっと遅かったのだと思います。私の尊敬する大平正芳さんが総理になった時に、国民に約束したことは2つありました。1つは家庭基盤の整備、今1つは地域田園都市構想です。この2つが、残念ながら失われた20年の象徴的な問題ですね。結局、家族や家庭というものが失われ、都市と地域・地方の格差が出てきて、地域が置き去りにされてしまいました。都市が一人勝ちしてはだめで、地方の元気が日本の元気だとの考えです。


中国は日本の過ちを繰り返さないように、今の日本の都市と地方との間にある格差が生じないような政治をやっていただければと思います。地方をここまで疲弊させている大きな原因は、第一次産業である農業、林業、漁業という地方の活力になる産業が置き去りにされてきたことです。戦後の自民党政権の政策で一番失敗したのが、農業などの第一次産業対策です。私が最初に当選（1980年）したときの国家予算は当初予算で70兆円前後でした。その中で農林水産業に使う農林水産省所管の予算が3兆4千億円くらいです。今年（2011年）は国家予算が92兆円を超えていますが、農林水産省の予算は2兆4千億円ですね。全体のパイは増えているけれども、その分野の予算は減ってきています。さらに、農業、漁業、林業に従事する人口は当時3,000万人いましたが、今農業では260万人に過ぎません。






薛軍
第一次産業に元気がなくなれば国の元気がなくなる、これは中国にとって非常にいいアドバイスだと思います。なぜかといいますと、今の中国は都市化、工業化が進んで、農業人口は減ってきています。産業構造の調整に際してのバランスの問題について、アドバイスいただければと思います。


古賀
日本のように、資源のない国が技術、加工といった分野を伸ばし、外需に力を入れ、国を豊かにしていくことはやむを得ないと思います。しかし、行き過ぎはいけない、どこかで歯止めをかけて、第一次産業を国の責任においてどこまで守っていくのかを決めなければなりません。ここが非常に難しいけれども、勇気を持ってやりませんとね。



川村
私が長崎へ住んでいたときにつくづく思ったのは、長崎空港から高速道路を走ると、時間によっては前後に車が一台もいないのです。一方、首都高速だと車は全然動きません。首都高速は700円で、長崎はその区間600円。結局、大都会の東京でお金を払って田舎の長崎に補填しているのかなって正直感じたわけですよ。ところが地方にいると、世の中不景気だって言っているのに東京は関係ないみたいに感じるわけです。ブランドのバッグを買って、おいしいレストランで食事をしてと、みんな大変だと言いながらも楽しんでいます。地方はそれこそ一家離散なんていうのは年がら年中です。この差は何だ、結局都会に富が偏っているのではないか、国全体をもう少し平準化して格差を縮めていく、それが政治ではないかと多分地方の方は思うはずです。


古賀
私が申し上げたいのは、国際分業の中で、第二次、第三次産業はそれぞれ企業の自助努力によってかなり力を伸ばすことが出来る、しかし、第一次産業は一人頑張っても限界があるということです。これに対して、政治はどういう補填をするのか、決して一方的な補助だとか助成ということを意味して言っているのではありません。国の均衡ある発展というのは、何も高速道路をどんな田舎にも同じように作れとか新幹線を引けとかというのではなくて、地方に必要な力をどこまで与えていくか、その投資を上手く使わせるかということが大事なことで、これが均衡ある発展につながることになります。だから、その資金配分の問題を、私は非常に大事な政治の課題と思っています。
薛軍
仮に20年、あるいは30年時間を戻せるとしたら、日本の農業を元気にするためにどういう政策を採用すればいいですか。



古賀
農業というのは、ある意味での面積の集積が必要です。それなのに今の日本の法律は、親が亡くなったらすべて兄弟平等に財産分与をしています。すると田んぼはどんどん小さくなっていってしまいます。だから、一つはどうやって集積するかということを考えなければなりません。それから、今耕作に従事している農家の人たちも高齢化が進んで、自分はもうやれない、跡継ぎもいないとなっています。その人たちが本当に農業をやる気のある担い手にどう土地を提供するか、提供する側にどのような支援をしていくかと、いろいろなことを考えなければならない時にきています。一方で、30年前の日本の農業はそんなに機械化は進んでおりませんでした。大事なところは、人手はかかりますが、昔からの歴史と伝統の中で自分の技術でやる分野というのを残さなければなりません。第一次産業が機械化されるということは、私は決していいことではないと思いますね。それでは、それに携わっている人たちの所得をどう手当てしていくのかということが課題となります。農業というのは何も食糧生産だけではなく、土地を水害から守る、自然環境を維持するといった多面的な役割がありますから、それをどう評価して所得を助けるのか、それが第一次産業を根付かせるために政治でやらなければならない一番大事なところだと、私は思っていますね。


薛軍
いいアドバイスをいただき、ありがとうございます。


川村
日本は高度成長が終わり、55年体制といわれ自民党の定番であった政権が交代した前後から、国民の意識がずいぶん変わってきたような気がします。かつては、大物政治家へのリーダーシップの期待もあったし、ある程度政治家もその期待に添うことができました。しかし今は、そういうリーダーシップを政治家に求めなくなってきているのではないでしょうか。それでも国がここまで大変な状況になってくると、日本人も次第に強いリーダーシップを、強力な指導者の出現を望んでくるのではないかという気がしてくるのですけれど、いかがでしょう。



古賀
われわれ国政に携わっている者にとって一番恥ずかしいところを指摘されているわけですが、私が最初に中国に国会議員として訪問した時から数えて、今の野田さんで19人目です。


私が初当選した当時の鈴木総理から、31年で19人。その中で、中曽根、小泉両総理の時代が10年ありますから、17名で21年ということですね。平均1年あるかないか、まさに政治の貧困ですね。それと、本当にこの国をどうするかという哲学とか信念を持った政治家が必ずしも当選してきていません。今の政治家は自己表現ばかり大切にして、国民も政治家をパフォーマンスができるかどうかで評価します。私はそれにはメディアの責任も大きいと思います。その意味では、小泉さんの責任は大きいなと、それと小泉さんにぶら下がったマスコミも同様です。国民にまるでスポーツ選手や役者の芝居を見るように、劇場型の映像で伝えています。これは、失われた10年あるいは20年の象徴だと思いますね。国民もそこがわかりつつあるのではないでしょうか。また、わからない限り日本の国は沈没します。そうした国民一人一人の意識復興、意識改革、これができるかどうか、そういう教訓として受け止める必要があるのかもしれませんね。
川村
最近強く感じるのは、新しい媒体が急速に広まってきていることです。それも情報の出し手が名乗りもせず、一方的に真偽を取り混ぜた情報を山のように垂れ流す傾向があります。中国も同じような状態にあると思うのです。メディアの一部には、真実を迅速に伝えるということではなくてスキャンダルの追っかけ屋みたいになってしまっているところもあります。また、マスコミ批判と言うのは、マスコミはあまり取り上げないのですね。メディアへの対応、あるいはメディアの意識改革というのはどういうようにしたらいいのでしょうね。
古賀
私も確かな答というのはないのですけれども、政治というのは結果です。政治に結果をなくしたら、これはもう何の責任も使命もないということですね。しかし、今行われていることは、総理の言っていることについてすら誰も結果を報道しようともしませんし、追及しないですよね。私はメディアの責任として一番欠如しているところだと思うのですね。
薛軍
もう一つ、3月11日に発生した東日本大震災について、当時の政府の対応は非常に問題だと多くの人に言われていますが、古賀先生のご感想はいかがでしょう。
古賀
およそ復旧、復興の対応になっていませんでした。特に原発の処理の問題というのは、全くスピード感がない上、組織的な動きがとられず、内閣はバラバラ、官僚もバラバラでした。私はこの遅れの原因を揚言すれば、まさに内閣の貧困に尽きると思います。すべての責任を一身に自分が負う、すべての組織にその力を100パーセント、120パーセント発揮させるというのが、総理大臣のリーダーシップです。それなのに、総理が組織を動かすことができなかったのですから、スピード感が出るわけがなく、無策を通り越した復旧、復興だったと思いますね。
川村
古賀先生は官僚機構の活用の仕方が非常に巧みで、官僚からも信頼感を得ているとかねがね窺っているのですけれども、ここ10年くらいは何でも官僚が悪いという風潮になっています。これについてはどんなふうにご覧になっていますでしょうか。
古賀
誕生して2年の民主党政権には、自民党政権とはいくつもの大きな違いがありますね。日本の国は政党政治ですから、国家も国民の運命も政党に帰属するというのは当然で、だから政権を担う政党が代われば大きな変化が出てくるというのは当たり前です。今言われたのはいくつかの大きな変化が出てきているうちの一つですね。官僚の政策に関する知識、頭脳や持っている経験は、政治家が逆立ちしても敵いませんし、能力は官僚が数段長けています。この人たちの力を100にするのか200にするのかは、大臣であり、副大臣であり、政務官だと私は思いますよ。官僚の力、経験と能力を発揮させることが大切です。今の政治のように官僚を叩いていて、政治主導などというのはありえません。
それから、戦後66年のわが国の民主主義で最大の欠点は、一番大事な人づくり教育に失敗したことです。確かに経済は豊かになりましたし、すばらしい製品を作り出すことには成功しましたが。
川村
人づくりに失敗した、身につまされるお話ですね。私の大学教員の経験に照らしても実感します。
古賀
国はやっぱり人ですから。その人づくりに失敗した、これはもう間違いありません。何故失敗したか、それは残念ながら教育の現場にあることは疑いないです。
憲法改正はいろんな点で議論されていますが、私は、第9条、この平和憲法は、国の世界遺産だと言っています。この第9条は大事にしなければいけませんが、私は国民の権利と義務を定めた現行憲法の第3章は絶対変えなければならないと考えています。これを変えない限り、家族も戻って来ないし、家庭も取り戻すことはできません。第3章は、第10条から第40条まで30条の項目から成っていますが、そのうち国に果たす義務はたった3つしかありません。納税と労働と義務教育の3つです。あとは全部権利です。だから私は、憲法改正は絶対必要だと主張しています。日本の国民として権利を主張するなら、義務も同じように果たさなければいけません。あまりにもアンバランスであり、これを変えない限り、家族と家庭は帰ってこないと私は思っています。
川村
最後に定番的な質問を。日中間は、今後もあらゆる面でますます重要になっていくと思いますが、古賀先生の経験を踏まえて、日中双方に対して何かアドバイスがありましたらお願いします。



古賀
私は日中関係というのは、非常に長い歴史と、またよその国々にはない文化的な交流の歴史を有していると思います。一時期不幸な時代があったわけですが、この不幸だった時代をどう乗り越えていくのか、というのが極めて大事だと思います。今、残念ながら中国では親日家よりも親米の勢力がどんどん伸びているというのが事実です。なぜかというと、日本の国は、一番大事な日本の固有の精神文化を失ってきていますから、中国にとっては魅力のない国となっているのです。経済的な交流はどうにでも改善できるし、改革できます。しかし、国と国との信頼関係の基本は民と民との信頼なくして成り立たないのです。だから、本音で話をすることが大切だと思います。相手が嫌がること、相手が怒ることでも、もし自分がこの人とこの国と友好、信頼を続けていこうと思ったら、それを言わなければなりません。日中は、自分の考えていることをすべて素直に伝え、間違いを間違いと明確に言える、そういうお付き合いを、私はやるべきだと思います。それが続けられれば、日中というのはお互いに信頼できる国として必ず復活し、今より深い絆ができてくるのではないでしょうか。それが、日本の国のためにも中国ためにも、50年先100年先を見据えて必要なことではないでしょうか、私はそう思っています。


]]></description>
		</item>
			
		<item>
			<title>第8回 境界の思想から共存の思想へ</title>
			<link>https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/dialogue/08_20120116.html</link>
			<pubDate>Mon, 16 Jan 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
			<description><![CDATA[
        川村
本日のゲストは、一橋大学学長の山内進先生です。先生は、ヨーロッパの中世法制史を中心に欧州社会の拡大について、歴史的な観点から多角的かつユニークな研究業績のある碩学です。最初に、山内先生と中国との縁の始まりについて簡単にお話しいただけますでしょうか。



山内
我々日本人は、中学・高校で漢文を習うように中国に対し深い関心と関係を持っています。高校一年のときに習った詩が中国の一番初めの印象となったのですが、それは『詩経』に載っている、日本語で言うと「桃の夭夭たる」花嫁の歌でした。詩経国風の周南の詩で、今でも覚えているのは「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華」というので始まる文章で、「この子ここに歸（とつ）がば 其の室家に宜しからん」というものです。「こんなお嫁さんがいたらいいな」という詩ですね。しかも桃になぞらえていて、非常にいい印象を受けました。漢文で中国に関心を持ったのが一つです。もう一つは、下村湖人が書いた『論語物語』という本を読んで感激し、それから論語を初め中国文学に関心を持ち続けたことです。大学受験の時も中国文学を専攻しようかと考えたほどです。


大学は法学部で、法制史としてヨーロッパ法の歴史を専攻しましたから、直接的には中国と離れていました。最初に中国を訪問した時は、上海に行き復旦大学と上海財経大学を案内してもらい、中国への関心が再び呼び起されることになりました。さらに関わりを強く持つようになったのは、一橋大学の法学部長になる頃ですが、中国との交流を盛んにしようと中国社会科学院と協力してシンポジウムを行ったことで、そのときの成果は一部が本になっています。もう一つは、中国社会科学院を訪問したときに人民大学も訪ねたところ、当時の王利明法学院長が交流に積極的であったことから、一緒にやっていきましょうと話が進み、何度か交流でシンポジウムを開いています。
薛軍
日本国内では一橋大学はとても有名です。一方海外では、一橋大学は社会・人文科学専門で理科系がなく規模が小さいためあまり知られていませんが、中国では積極的に北京事務所を立ち上げ、活発に色々な活動をされています。
山内
日本と中国は、当時「政冷経熱」という関係にあり、政治とは別のレベルでもっと強い絆を作っていく、関係を強化するのが大事である、そのために一橋大学は文化の一部を担う存在として役に立つべきだと考えて、北京に事務所を作ったのです。積極的に大学レベルでの交流を強化する、いろいろな出来事があっても我々の間ではとにかく着実に歩みを続けましょうということですね。
薛軍
私は、少人数で団結力がある一橋大学の学風がとても好きです。北京での活発な活動のように、一橋大学はどうやってOB会の組織や留学生を海外での展開に活かしているのでしょうか。
山内
グローバリズムの時代ですから、一橋大学も世界的な競争の中で留学生の獲得競争も含め頑張っていこうというのは当然あります。一橋大学は割合と規模が小さな大学で、その代わり高い質を求めます。この高い質の中には、卒業した後も、ずっと大学が役に立つという側面があります。そのため、同窓会組織がしっかりしていて、卒業後も付き合いがずっと続く集いを作り、一橋大学に入ってよかったと卒業生が思えることが大事だと思っています。留学生にも、帰国後でもまた大学を来訪する、現地で交流を深めるというような機会を、いろんな形で設けたいと思っています。



川村
ところで、山内先生の『北の十字軍』を読んで、実は知らなかったのですが、バルト海の方に行っていた十字軍があるそうです。compelle intrare（入るように強制せよ）の発想に裏付けられたキリスト教世界の政・経・文が一体となった拡張運動が、実は大航海時代にもつながっていき、それが西欧社会の拡大と強くリンクしているとあります。他方で、当時の中国は世界のGDPの約3分の1を占める大国でした。それをヨーロッパの拡張運動が海から侵食していき、アヘン戦争の時代になると、強大な中国があっという間に西欧に蹂躙されてしまいます。ただし、結果としてバルト海沿岸とか、ヨーロッパの外縁部のようにはcompelle intrareが、アジアでは実現できていないようですが。また、中国を筆頭にアジアがプレゼンスを高めてくる中、今後のアジアと世界の行方について、大胆な仮説を提示するとしたらどんなものになるでしょうか。








山内
第一に、ヨーロッパの拡大という中で、異教徒にも権利があるかないかという問題設定が元々あって、その場合に人権がどういう意味を持つのかを私は考えました。ヨーロッパは人権の先進地だと言われますが、歴史的に見ると帝国主義もあれば植民地を作り征服活動もしています。つまり人権を語る一方で征服活動もしているのはなぜかという疑問です。この問題についての議論は、「コンスタンツの公会議」（1414-18年）で論争されています。要するに、一方は「キリスト教は正義であり、キリスト教徒でない人たちは全く権利がないのだから何をしても罪にならない」と言い、他方は「異教徒といえ同じ地球の中に住んでいる人間だから皆権利を持っており、勝手なことはしてはならない」と言います。人権というときの一つの論点です。この二つの流れがあって絡み合う中、ヨーロッパは国家というものを非常にうまくつくり、他の文明的地域に対して武力で勝利を収めました。一方でイデオロギーの面でも人権というものの主張によって優位に立つことになりました。その二つの間には複雑な関係があります。そこで征服する方の動きを調べますと、エルサレムに向かう十字軍の他にも十字軍があるということで、その勉強を始めたのです。まずヨーロッパは東へ拡大していきますが、ロシアとトルコに阻まれました。すると、海の向こうのアメリカへ進出していくのですが、アメリカはヨーロッパでないとして植民地化したのです。一方、当時のアジアでは中国が非常に強力な国家として存在し、征服などできるわけがなく、むしろいろいろな条約を結んで対等な文明国として付き合っていました。こうしてヨーロッパの形成がまず一回終わり、「自分たちのヨーロッパ」を作り上げたことから、外の世界と自分たちの世界との関係で、外の世界を自分たちの世界に従属させようとします。それがアジアで成功し始めたのがおそらく19世紀です。もう一つ、「帝国の進路は西へと進む」という言葉があります。もともとヨーロッパの考え方なのですが、バビロニア・アッシリアあたりから権力が動いていき、イギリスを経てアメリカへと渡る、最後の帝国がアメリカだ、というものです。アメリカは19世紀の半ばに辿り着いたサンフランシスコから海を隔てた日本や中国に来ました。それとヨーロッパ勢力の海から来るのとがその辺でぶつかり合い、日本及び中国とヨーロッパの関係がかなり生臭いものになりました。その時には、ヨーロッパはアジアを植民地にするという考え方に移ってきており、カトリックの自分たちは絶対全部正しい、皆を自分たちと同じ世界の住民にするという発想は既になかったのではと思います。


次に、世界とアジアの将来がどうなるかについてですが、国際政治のレベルでの動きの発想として、自分と他者との間にラインを引き「俺とお前たちは違う」という境界の思想があります。これには、「異質なる者を征服して、自分たちはエリアを拡大していく」ものと、「存在はそのまま認めるけれども、対等な関係と見ないで従属させる」という行動形態があります。境界の思想は、自分と他者を区別して他者に対して征服するか、従属させるという発想で動くものです。おそらくヨーロッパの人たちの基本的な動きは境界の思想であって、相手側が強ければ当然戦争になります。そうして、ヨーロッパは自分たちの世界を拡大し、これまでやってきました。ただ、もう一方に、共存の思想があります。「私とあなたは違うかもしれないけれど、お互い仲良く暮らしましょう」というのが共存の思想です。境界の思想と決定的に違うのは、一方が優位に立ってその優位性を相手に押し付けるのではなく、それぞれの存在を認め合うことです。それが結局人権につながっていきます。これはヨーロッパでは国内的にはうまくセットされるのですが、国内限りで国外に対してそういう発想はしませんでした。だから、自分たちは人権宣言を出しながら、外では平気で植民地を作ったりしたのです。それが20世紀ごろから、国際社会のレベルで見ても、他の国の人たちに人権がないのはおかしいという考え方が一般化してきます。第1次世界大戦以降かと私は思います。そういう中で、共存の思想が力を増してきています。また、同時に「力」の問題というのが国際政治の中にあります。19世紀にアジアはヨーロッパ列強に蹂躙されましたが、その過程を経てアジアは力をつけてきました。「文明の衝突」といわれるようになるのは当然で、それぞれの地区が自己主張を始め、自分たちの正しさを伝えるということになれば、それは衝突となります。ハンチントンの言説には、今まで一極支配的に欧米の文明が世界を支配していたのに、他の地区の文明が強くなり一極支配できなくなってきたことに対する恐怖みたいなものもバックにあると思います。もともと文明は並列的に存在していて、相手に対抗する場合でも文明の新しい担い手が、共存の思想を持って進んでいくことになれば、衝突は起こりません。私自身が期待しているのは、そういう衝突が起こらない世界を作っていくことです。
もう一つ、20世紀は国家がシステムとして非常に強かったわけですが、国家が絶対的に今後も続くわけでは必ずしもありません。もう少し大きなくくりの中で見ていくことが大事となり、大きいエリアとしての文明的なものが出てくるのではないでしょうか。国家に全ての価値観が収斂していくような20世紀あるいは19世紀後半のシステムだったものを今後改めていって、小さいレベルでも違う価値が多くあって、それらの価値を我々は大事にしていかなければならないと思います。そういう意味での「ふるさと」とか、大地、歴史、伝統、つながりといった側面が大切です。先に述べた「桃の夭夭たる」もやはり一つの文化的つながりです。このセンスは欧米のセンスと違うところがあります。そういうある種のつながりをお互いに大事にして尊重しあうという努力をすれば、おそらく21世紀はより良い世界になるのではないかと希望的な観測を持っています。



薛軍
日本の大震災の影響で、ヨーロッパのいろんな国で原発離れという動きがありますが、ヨーロッパの歴史の観点から何か考えられるところはありますか。


山内
ヨーロッパは、自分の生命は大事だという考え方が非常に強いところなのです。
薛軍
ヨーロッパの考え方や思想あるいは歴史の立場といった視点からはどうでしょう。
山内

原子力は神の領域を超えている、あるいは神の領域であって人間が携わるべき問題ではなかったという発想をしているとすれば、それはヨーロッパ的なのかもしれません。しかし、基本的には自分たちの生命を守っていくということが大事であり、我々の生命や安心、安全を一義的に考えたときに、日本で起こった事故を見るとこれはやはりやめた方がいいと判断をするレベルなのでしょう。日本でも本当は同じだと思います。ただし、その場合の判断として、どこまで原子力の安全性が信頼しうるのか、つまり安全にコントロールすることはある程度できる、かなりできるということを、我々が信じるか信じないか、認めるか認めないかにかかっていると思います。



川村
日本の大学教育には、大衆教育なのか、エリート教育なのかという対立軸と実学教育なのか、基礎教育なのかという対立軸があります。日本のかなりの数の大学では「レミディアル教育」と称して、理科系の学生に高校数学から教え直す部分があります。すると、全体が足を引っ張られ、良い意味でのエリート教育はなかなかできません。片方で実学か教養かというのも、MBAコース、ロースクール等は実学ですが、哲学、歴史、文学、美術といった基本も必要という動きもあって、いろいろな議論が錯綜してきたと思います。一橋大学の学長という立場からはどんなふうに考えておられますか。



山内
私が学長になってから、「スマートで強靭なグローバル一橋」をスローガンに、「スマートで強靭なグローバルリーダーを育てます」ということをうたい文句にしています。ある意味でエリート教育と言っていいと思います。それでは、どういうリーダーを育てるのかというと、大学の憲章の中に、「構想力ある専門人」、「理性ある革新者」、「指導力ある政治経済人」の育成とあります。我々は、前身の東京商科大学時代から産業界のリーダーを輩出するということを基本としてきたわけで、その点から一番近いのは「指導力のある政治経済人」の育成であると思います。さらに「構想力ある専門人」というのは、自分の知識を武器に世の中で生きていける人間を作ることですが、自分で企画できる人間になるにはイマジネーションが必要です。そのためには幅広い知識が必要となり、専門的な教育はもちろんリベラルアーツ的部分も重視されます。スマートと言っているのは、要するに賢くてかっこいい、そして強いリーダーを育てたい、そういう意味を込めています。教養はいろいろな体験・経験を経て身に付くもので、大学としてはいいキャンパスつまり環境を作ることが必要だと思います。もう一つ、実学の問題ですが、基本的に社会科学は実学だというのが私の考えです。社会科学は、社会をよりよくするための学問、社会で起きているいろいろな問題を見て、その問題を解決していくという学問です。そういう意味において実学だと考えます。哲学や文学では極端な言い方をすると、「自分は人を殺す権利がある」ということを作品の中で書いてもいいのです。それは、一つの文学であり、哲学であるということです。昔から学問は、詩や文学、哲学、史学とか、ある意味で王様や貴族の学問でした。一方、社会科学は近代になって発達してきたものです。社会で起こっているいろいろな問題に対処するには伝承のような知恵がありましたが、それ自体は学問ではありません。ところが、ヨーロッパはそういう知恵を学問化していきました。それが経営学や経済学となるわけです。自分たちの知恵のレベルであったものを非常に優れた学問にして、社会システムをまさにシステムとして知的に作っていき、それを運営していくことが可能になったのです。そういう知恵的なレベルのもの、たとえば軍事学でも単に軍人のレベルの問題ではなく学問として確立しています。軍事行動も、軍事的天才の思いつきで動かすのではなくきちんと学問的に詰めるのです。城を造るにも数学者がいて、工学が発達してきます。いろいろな人に伝えて、より良くしていくシステムを作ったわけです。これは、「人は何のために生きているのか」というレベルの世界とは、ちょっと違います。中国では、非常に優れた人たちが政治の世界に就きましたが、彼らの関心は漢詩を作ったり解釈したりすることで、日常の世界で民衆の生活レベルを上げるためにどうするかといったことには基本的に関心がありません。要するに、現実の民衆の世界と上の層をつなぐために学問的なシステムを作っていくという関係がありませんでした。一方、ヨーロッパでは現実の世界の解決策を学問的な形にして大学で考えていきます。それも何世紀もかけて学問を作っています。日本は、そこにできたエキスをうまく取り入れ、「教育は大事だ」とお金もない時代に学校や大学を作ってがんばったわけです。


薛軍
大変勉強になりました。貴族の学問と、大衆・国民一般の学問としての社会科学を区分する視点に感服しました。ところで、中国と日本の大学生の違い、また日本の教育制度についてコメントを頂けますか。また、留学制度についても学長の立場からお話を伺いたいのですが。
山内
古典的な意味で大学教育がエリート教育であるという時代は終わっていますから、全ての学生について「今の日本の学生は」とか、「中国の学生は」と言っても結構難しいと思います。日本でも優秀な人の集まる大学の学生は活気もあるし、一生懸命やろうという気概に満ち溢れていると私は思います。中国も同じでしょう。ただし、競争圧力は中国の方がはるかに強く、中国の学生のほうがいろいろな意味で気合が入っているのではないでしょうか。日本では、基本的にいろいろなインフラや財、資産が国の隅々まで行き渡ったと思います。この点はおそらく日本史上一番良い時代です。そういうものの上に今の学生たちは育ってきており、そのことを学生たちに思ってもらいたいのです。日本をこれからどうしていくかと考えるときには、お金のないときに一生懸命やってここまで来たという発想の延長で考えるとあまりうまくいきません。これだけの財産をもらい、今ある資産をどうやって活用していくかということを考えるべきだと思います。また、中国の皆さんが一生懸命勉強し、非常に優秀というのは間違いないと思います。ただし、人民大学や清華大学での例ですが、学生の雰囲気は積極的ですけれどもアグレッシブっていう感じではなくて、オープンマインドで明るい感じでいいなと僕は思いました。日本の学生と中国の学生とは、違う面もたくさんあると思いますが、共通している面も結構あります。そういう面では、これからお互いに一緒にいろいろやっていけるのではないかと思います。もう一つ留学生制度の話ですが、私たちは留学生を積極的に受け入れようと考えています。一橋大学の場合は学部より大学院生の方が多いのですが、学部レベルからも来ています。
薛軍
私は、大学院は日本で、大学は中国です。
山内
それはオーソドックスなスタイルだと思います。学部からの進学は自分の国での足場を失うことになりかねず、なかなか大変です。一橋大学の場合、アジアから来ている学生は545人いるのですが、そのうち中国は197人、韓国は192人、5人差です。学部から来ているのは韓国からが105人と多く、中国が30人です。大変な決心をして学部から来ている学生がいてくれるのはありがたい話なので、私たちはそういう人たちを大事にしたいと思っています。留学生の就職に関しても、一橋大学は、産業界、経済界に強いので、力を入れています。
川村
歴史の話、大学の話、研究の話、多岐にわたっていろいろ教えていただきましてありがとうございました。今後ますますご活躍いただければと思っています。
山内
どうもありがとうございました。
薛軍
どうもありがとうございました。
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