人材不足に立ち向かう「最高健康責任者」

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  • コンサルティング企画部 主任コンサルタント 枝廣 龍人

外食や運輸、建設業界における人材不足の問題が叫ばれて久しいが、「人が足りない、人がいない」との声はこうした業界の外にも広がっている(下図参照)。学生就職人気ランキング上位の常連の大企業からも「欲しい人材が他の会社に取られてしまっている」との声が聞こえており、人材不足の問題と無縁ではない。こうした学生に人気の企業であっても、必要な人材が確保できなくなりつつある現在の状況に強い危機感を抱いているようだ。

雇用人員判断DI(「過剰」-「不足」)

いずれ景気が減速し後退局面を迎えたとしても、人材不足の問題は引き続き経営の課題であり続ける可能性が高いだろう。労働力人口が長期の減少トレンドにあるためである。このため、足もとの人材不足に対してその場しのぎの対策を採ることは、不十分であるばかりか、さらなるリスクを抱え込むことになりかねない。労使協定で定めた労働時間の上限を超えて従業員を働かせる、最優先事項であるはずの安全・品質確認に手を抜くなどの拙速な対応が凄惨な事件や社会的信頼の毀損につながった事例を挙げることは、読者の方々にとって、もはや難しいことではないだろう。


近年、就労環境の悪化を防ぎ企業の持続的な成長能力を高めるため、政府は労働安全衛生法の改正などを進めているが、経営者はこうした法改正をチャンスと捉えるべきである(※1)。企業の変革には反発や抵抗がつきものであるが、法令遵守のための変革であれば周囲の理解と協力が得られやすい。この際、弁護士や社会保険労務士などの専門家による助言のもとで間違いのないように対応を進めることも重要であるが、それ以上に、単なる法令改正対応で終わらせず、これをきっかけとして独自の取り組みを進めることを推奨したい。


既に女性活躍や育児・介護支援、短時間勤務、職場におけるダイバーシティ(シニア、外国人、障がい者、LGBTなど)の推進において多くの企業が様々な取り組みを進めていることは周知の通りであるが、近年注目されているのが、CHO(Chief Health Officer)やCWO(Chief Wellness Officer)の略称で呼ばれる「最高健康責任者」を設置する動きである。たとえば、ロート製薬㈱は2014年6月に、㈱大和証券グループ本社と㈱ローソンは2015年10月にCHOを設置し、㈱FiNC、日本交通㈱、㈱吉野家ホールディングス、㈱リンクアンドモチベーションの4社は2015年5月にCWOを設置した。そのほか、「健康経営宣言」や「健康宣言」(※2)を採択し、経営者自らが従業員の健康を守る意思を社内外に表明する企業も増えている。これらの企業では、経営会議もしくはそれに準ずる会議体において、「従業員の健康度」や「仕事への満足度」が議論されている。従業員が心身共に健康でいきいきと働くことのできる職場環境を整えることは、もはや法令遵守や人事部門の枠にとどまるものではなく、全社的課題として経営陣が取り組むものになりつつある。


職場における健康増進の具体的な取り組みは、社員⾷堂におけるヘルシーメニューの提供であったり、社内ウォーキングイベントであったり、年次休暇の取得推進や作業現場におけるリスクアセスメントであったりと各社各様であるが、これからCHO/CWOの設置を検討する企業、もしくは健康経営宣言/健康宣言を行う企業が健康維持増進の取り組みを行うにあたってどのような点に気をつけるべきか、筆者はここで3点を挙げておきたい。


第1に、自分の会社が従業員の健康維持増進に取り組むべき意義を、経営者と経営陣、少なくともプロジェクトチーム(CHO/CWO室、健康経営推進課など)のメンバーでしっかりと共有することである。その際、健康診断における有所見者の比率が上昇している、特定の層や特定の事業場で勤労意欲が低下している、入社志願者が集まらなくなっているなどの情報があれば課題認識を共有しやすい。通常の経営管理プロセスと同様、まずは経営者や管理責任者などが課題を認識し、彼ら・彼女ら自身がその課題解決に真剣に取り組む姿勢を見せることによってはじめて、その下で働く従業員も主体的に動くことができるだろう。また、真剣に取り組むことは重要であるが、能力以上の背伸びを求めたりするとすぐに疲れてしまうため、できる所からやる、ゲーム性を持たせる、たまにはあえて身体に悪そうなことをしてみる、周囲の理解が得られなければサッと方向転換するなどのメリハリと柔軟性は忘れないようにしたい。


第2に、目標を立てるにあたって、「(突発的に)病院に行く必要がない」という医学的な意味での健康と、その先にある「持っている力を最大限に発揮できる」という経営的な意味での健康の推進とを分けて考えることである。下図のような二階建て構造をイメージするといいだろう。

二階建て構造

1階部分である医学的健康は、主に健康診断の受診率や有所見率、血圧、睡眠時間、BMI、高ストレス者比率など、従来の産業保健で扱われる指標で計測されるものである。一方、2階部分である経営的健康は、その企業の風土や業態に合った独自の指標で、ワーク・エンゲイジメントの観点などから計測されるべきものである。遅刻率、欠勤率、仕事への熱意、職場環境の満足度、運動イベント参加率など様々なものが考えられるだろう。労働安全衛生法の2014年改正によって、常時50人以上を雇用する事業場ではすでにストレスチェックが実施されているはずであるから、そのチェック項目からあてはまりのいい項目を重点評価指標として採用し、集団分析やヒアリングを行うことも有効と考えられる。


第3に、すでにある社内の資源を活かしきることである。労働基準法や労働安全衛生法に代表される法令をきちんと守っていれば、多くの企業では毎月(安全)衛生委員会が開催されており、産業医や総括安全衛生管理者、(安全)衛生管理者が、人事部長や現場の従業員とともに、職場環境の改善について議論を交わしているはずである。人事・総務部にある健康診断結果やストレスチェック結果を分析すれば、事業場ごとの課題や取り組むべき方策も見えてくるであろう。また、健康保険組合(通称「組合健保」)に加入している企業であれば、データヘルス計画の開始とともに既に社内の担当者によって健康維持増進のために何らかの対応がとられているはずであるし、組合健保を持たない企業であっても、全国健康保険協会(通称「協会けんぽ」)や産業医の先生などから何らかの指導を受けている担当者がいるはずである。こうした資源を活かさない手はない。新しいことを始めるというよりも、すでに行われているこれらの取り組みを経営陣が評価し、支援し、場合によっては方針を変えることが重要である。もちろん、きちんとした法令の遵守から取り組むべき状況にある企業もあるだろう。その場合には、社会保険労務士などの専門家と相談しながら自社の現状を把握し、重要な事項から順に取り組むことをお勧めしたい。


従業員の健康と企業業績との関係については、欧米を中心としてすでに一定の研究が蓄積されている。米国研究者R. Fabius (2013)は、優良健康経営賞受賞企業(Corporate Health Achievement Award Winners: CHAA)を受賞した企業群の株式価値が、一般的な大企業群であるS&P500の株式価値よりも高くなる傾向にあることを示した(1999年から2012年の13年間において前者が後者の約1.8倍となった)。こうした流れを受けて投資家も、営業利益やROEといった財務情報だけではなく、ESG(Environment-環境、Society-社会、Governance-企業統治)と呼ばれる非財務情報を投資判断の材料として重視するようになっている。約140兆円の年金積立金を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)は2015年9月、国連責任投資原則(PRI)に署名し、ESG投資の本格的な推進を決定した。経済産業省と東京証券取引所は2015年から「健康経営銘柄」の選定を行っており、日本政策投資銀行(「DBJ健康経営格付」融資)や青森銀行(「ながいきエール」)などの金融機関においても、従業員の健康増進に積極的に取り組む企業を評価・支援する動きが広がっている。


従業員の健康が当たり前のように経営会議の議題に上がる時代はもう始まっているのではないか。従業員の健康に向き合い、その維持増進に主体的に取り組むことは、少子高齢化時代における経営者への要請でもある。その旗振り役として「CHO/CWO:最高健康責任者」設置の動きが今後も広がることを期待したい。


(※1)2014年6月公布の改正労働安全衛生法では、ストレスチェック制度が創設され、化学物質管理義務が強化された。年休取得の義務化などを含む労働基準法等の一部を改正する法律案も現在国会で検討されている。
(※2)企業(主に経営者)が、法令遵守の枠を超えて、積極的に従業員の健康を維持増進していくことを社内外に宣言するもの。

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