耐量子計算機暗号(PQC)技術の概念実証 — 量子時代の安全なシステム基盤の実現に向けて —

なぜ今、耐量子計算機暗号(PQC)なのか?

ChatGPTやClaudeに代表される大規模言語モデルが「言葉の世界」を一変させた一方で、社会の足元では、今使っている暗号がいつまで安全かという問いが静かに、しかし確実に重みを増している。耐量子計算機暗号(Post-Quantum Cryptography、以下「PQC」)は、量子コンピュータが実用化された世界でも安全性を保つことを目指した、次世代の公開鍵暗号の総称だ。

近年、量子コンピュータの研究開発は急速に進展しており、十分な性能を備えた量子コンピュータが実用化されると、RSA暗号や楕円曲線暗号など現在広く利用されている公開鍵暗号は、解読リスクを抱えるとされている。さらに、今暗号化された通信を収集しておき、将来量子コンピュータで解読することを狙うHarvest Now, Decrypt Later攻撃(HNDL攻撃)の脅威も指摘されている。

米国国立標準技術研究所(NIST)は2024年に最初のPQC標準を公表し、日本国内でも金融庁や日本銀行を中心にPQC移行に関する議論が活発化している。一方で、実運用環境を見越したPQCの定量的な検証事例は乏しく、実際に適用した際にシステムへどのような影響が生じるのかは明らかではなかった。

【PQC移行を急ぐ3つの理由】
・長期秘匿性:金融分野は通信・データの保護に長期の安全性が要求される
・HNDL攻撃:「今盗み、後で解く」攻撃に対しては“現在”の暗号が無防備
・標準化の進展:NIST標準公表により、移行に向けた議論が国内でも本格化

適用領域は、オンラインサービスのTLS通信、デジタル署名・PKI、社内基幹系の暗号化通信など、長期にわたって秘匿性が求められる広範な業界に広がる。

※PQCに関する技術解説およびホワイトペーパーの詳細については、関連レポートをご参照ください。

大和総研におけるPQCへの取り組み

「まずは実環境に近い形で検証する」——これが大和総研のスタンスだ。基礎検証の段階から議論を重ね、2025年9月から2026年3月にかけて、大和証券のオンラインサービス開発環境を用いた本格的なPoCへと歩を進めてきた。検証は、大和証券グループ本社、大和証券株式会社、株式会社大和総研、日本電気株式会社(NEC)、F5ネットワークスジャパン合同会社、デジサート・ジャパン合同会社の6社共同で実施された。

基礎検証 — 「鍵長の増加が、性能以上の差を生む」と気づいた

最初に取り組んだのは、PQCの公開鍵・証明書サイズの増加が、実通信にどう響くかを見極めることだった。

大和総研
デジタルソリューション研究開発部
シニア・セキュリティスペシャリスト
山崎 禎章

山崎「PQCについては、従来の暗号と比べて鍵長が増加することが知られており、社内での基礎検証でもその影響を確認していました。一方で、PQCを実際のシステムに適用した場合の影響を評価した事例は多くありません。だからこそ、自社のPQC移行を検討する上でも、早期に実機で動かしてみることが重要だと考えました。」


ここで得た感触が、後の本番相当のPoCを進める上での重要な手応えとなった。

6社共同PoC — 大和証券の開発環境で、実環境を想定して検証

PoCでは、大和証券のオンラインサービスの開発環境にPQCの暗号方式に対応したロードバランサ(F5ネットワークス社製品)を導入。システム利用者の端末から大和証券システムまでのTLS(Transport Layer Security)通信でPQCを利用し、オンラインサービスに対する負荷テストを行い、サーバ負荷・レスポンス性能・安定性・通信量への影響を評価した。検証は、現行の楕円曲線暗号を用いた場合とPQCを併用した場合とを比較する形式で実施されている。

大和総研
デジタルソリューション研究開発部
セキュリティ・スペシャリスト
松井 直己

松井「実証検証の前に実施した基礎検証では、証明書のサイズの違いによってクライアントソフトの仕様や輻輳制御(ネットワークの混雑を検出し、解消・回避する仕様)の影響を受け、アルゴリズムそのものの性能以上の差が生じうることも判明しました。実運用を見越したPQCの検証事例が少ない中で、定量的な結果を示すことができた点に大きな意義があったと考えています。」


役割分担も明確だった。NECはPQCに関する専門的見解の提供とホワイトペーパーのレビュー、デジサート・ジャパンはデジタル署名・PKIに関する国際標準化動向の情報提供、大和証券グループ本社はグループ内の連携・調整や進捗・リスク管理、大和証券は実運用を見据えた互換性・処理性能・運用影響の検証を担い、大和総研が検証環境の構築、シナリオ作成、技術検証、評価、そしてホワイトペーパー執筆までを一貫して担当した。

お客様・業界への発信 — ホワイトペーパーで業界横断の議論を

検証結果は、PQCに関する標準化動向や移行アプローチの考察と併せてホワイトペーパーとして取りまとめ、2026年3月31日に公表した。発表後、業界団体・官庁から複数の反響が寄せられている。

PoCで見えてきたこと、そしてPQCの将来性

・ 鍵交換のPQC化は「実用上、問題ない水準」

PoCの結果、鍵交換のPQC化によるTLSハンドシェイク時間の増加は限定的であり、ロードバランサのCPU・メモリ使用率にも顕著な増加は見られなかった。一般的なWebサービス用途においては、PQC適用の処理性能への影響は今回の検証条件においては、実用上問題ない水準であることが確認できた。

・ ただし「通信量・パケット数の増加」は確実に効く

一方、鍵・証明書サイズの増加に伴い通信量・パケット数は確実に増加する。つまり、低遅延要件や狭帯域環境のシステムでは、個別の影響評価が欠かせないことも明らかになった。

・ クリプト・アジリティへ — 量子時代の安全なシステム基盤の実現に向けて

研究の最前線にいる山野チーフ・セキュリティスペシャリストは、今後をこう見ている。

大和総研
デジタルソリューション研究開発部
チーフ・セキュリティスペシャリスト
山野 葉子

山野「PQCの標準化は証明書のレイヤーで今もなお議論が続いており、製品やライブラリの対応も進化を続けています。大和総研では、今後も最新動向を継続的にウォッチしながら、クリプト・アジリティを意識したアーキテクチャや、暗号インベントリの作成手法、段階的な移行ロードマップの策定支援など、お客様の安全なシステム基盤の構築に直結する研究開発に取り組んでまいります。」

今回のPoCで得られた知見やネットワークは、金融機関のみならず、長期秘匿性が求められる広範な業界への応用可能性が示唆されたと考えている。今後も大和総研は、来たるべき量子時代に向け、お客様のセキュリティ強化と安全なシステム基盤の構築を、支援していく。

本ページの内容は、2026年7月時点の取材・制作内容に基づくものです。現在の所属・体制とは異なる場合があります。

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