罕(まれ)に利を言う

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2004年01月13日

  • 山中 真樹
論語の子罕編冒頭に「子罕言利與命與仁」という章がある。古来、この章は「子、罕に利と命と仁とを言ふ」と訓読され、「孔子が利や命や仁について語ることはまれであった」との意とされてきた。僅か8字しかない章であるが、この章は論語を読んだ大多数の人にどこか腑に落ちないものを感じさせる。というのも、論語のなかで「利」や「命」について述べられている個所はこの章以外にも一度ならず存在する。ましてや「仁」に至っては論語における最高の徳目としてたびたび孔子の口から言及されている。

そこで、たいがいの評釈者は「孔子がまれにしか語らなかった貴重な教えであればこそ、弟子達が必死に論語に書き残したのである」といった解説を加えている。しかし、それでもなお、すっきりしない。この説に従うと、「仁」や「命」をまれにしか語らなかった理由はそれが高邁な概念であるからであろうが、「利」は下世話に過ぎるからであろう。「まれ」であった理由の方向性が正反対であり、平仄がとれない。

こうしてどこか釈然としないまま孔子の時代から二千数百年が過ぎたのち、我が国の江戸時代の儒学者荻生徂徠が画期的な新解釈を打ち出した。徂徠によれば、この章は一旦、「利」のところで絶句すべきとされる。つまりこの章を「子、罕に利を言ふ、命とともにし仁とともにす」と読み、「孔子は利について語ることはまれであったが、語るときは必ず命や仁とともに語った」と解すのである。この解釈は論語の他の部分とも整合性がとれたものであり、積年にわたる疑念を払拭させる。さらには「利」を「仁」とともに語ることで、「利」が倫理規範化されるという点において近代性すら感じさせるものである。

さて、ここ数年、我が国においても、欧米諸国においても著名大企業の不祥事が相次いでいる。これらの多くは「利」を「仁」ととも語らなかったことによるのであろう。米国流のMBA型経営もよいが、新春ぐらいは東洋の古典をひも解き、経営のあり様に思いをめぐらすのもまたよいのではなかろうか。

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