デフレと財政危機を招いた為替PKO

“Deflation, or depreciation: that is the question”

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2006年02月27日

  • 高橋 正明
デ フレ(※1)終息が近いという観測が広がっている。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」にならな いように、デフレ論争を総括しておこう。

デフレを理解する上で参考となるのが、物価に先行して下落した株価である。株価が下落した根本原因が「実体経済からかけ離れて高くなりすぎた」ことであ り、実体経済との乖離が解消するまで下落圧力が止まらなかったことは、今では誰もが認めるだろう。価格が適正水準に向かおうとするのは市場経済の摂理だか ら、いったん回り始めたその歯車を止めることには無理がある。いわゆるPKO(Price Keeping Operation:株価維持政策)も、結果的には株価の底入れ・反転を遅らせてしまったといえよう。


同様に考えれば、デフレとは、高くなりすぎた日本の物価が適正水準に向かう過程ということになる。実際、80年代後半から日本経済の構造問題とされてきた 「内外価格差」「高コスト構造」は、現在ではほぼ解消し、話題になることも少ない。下のグラフからは、デフレが本格化した97年からの約8年間で、アメリ カに比べた日本の物価水準が約2割低下したことがわかる。「日本の物価は高すぎた→デフレは必然だった」と考えている人も少なくないだろう。


しかし、これこそ日本がはまった落とし穴である。外国に比べた日本の物価水準(※2)は、と分解できるから、その調整 は、国内物価の変化ではなく、為替レートの変化でもよいはずである。そして、為替レートはそもそも、各国の経済ファンダメンタルズ格差の調整を、国内物価 の上下動にかわって実現するために変動する(設定される)ものである。だから、中国に対して「人民元を切り上げよ」と求める声はあっても、「高インフレに せよ」とは誰も言わない。また、85-87年にかけてアメリカの物価の対ドイツ比は4割も下落したが、これはすべてプラザ合意をきっかけとしたドル安によ るものであり、アメリカの国内物価はこの間にも上昇を続けた。もちろん、誰も「アメリカの高物価はデフレで是正される」とは思わなかった。日本も90年代 後半までは、物価の対米比が為替レートと密接に連動していた。そもそも内外価格差が生じた原因は日本の高インフレではなく円高だったのだから、その解消は 円安で、と考えるのが自然であろう。

ところが、90年代後半に奇妙なことがおこった。下のグラフからは、物価の対米比が97年を境に、為替レートではなく国内物価と連動するようになったこと がわかる。95年から始まった内外価格差の調整が、円安からデフレに形を変えたのである。これは、メインルート(円安)が塞がれたため、かわりに裏道(デ フレ)経由で内外価格差縮小が進行したことを示している。円安が止まったことが、デフレの原因だったことになる。


どう見ても不自然な為替レートの動きは、円安が人為的に止められたことを示唆している。事実、当時の大蔵省は、1ドル=80円の超円高が反転して110円 台に戻った段階で、それ以上の円安進行を牽制する口先介入を繰り返し、97年末には120円台で円買い介入に踏み切っている。当時の宮澤蔵相発言などから は、大蔵省が1ドル=110~120円を適正水準と見なし、それ以上の円安を阻止しようとしていたことが明らかである。

割高な対外物価比に下落圧力が働き続けている段階で円安を止めることは、デフレを発生させることに他ならないのだが、当時の日本では「円安=『日本売り』 =日本経済の危機」という思い込みが一般的であった(※3)。大蔵省による円安阻止政策=為 替PKOも、この日本人の共通認識に基づいていたと思われる。デフレは、「日本経済を危機に陥れる『日本売り』を阻止」しようとした為替PKOの意図せざ る帰結、すなわち人災だったことになる。

円安を止めてデフレを招き入れたことの代償が、巨額の政府債務である。株価が下がり続けると予想されれば株式市場は冷え込んでしまうのと同様、物価が下が り続けると予想されれば、経済活動は冷え込み、GDPは縮小してしまう。GDPの縮小を避けるためには財政赤字拡大が必要だが、これは当然、政府債務の急 増につながる。97年に財政再建を本格化させようとした大蔵省が、自ら(局は違うが)の為替PKOで日本経済をデフレに陥れ、かえって財政を悪化させてし まったことは皮肉である。

円安の重要性を理解していなかった点では、リフレ(※4)論者も同じである。日本の物価を上 昇させるリフレ政策は、為替PKOと同じく、内外価格差是正に逆行するため、無理がある。成功のためには、開始時点で内外価格差が解消していること、つま りは内外価格差が解消するまで円安が進んでいる必要がある(※5)。確実に円安を実現する政 策と一体でない限り、リフレはおぼつかないのだが、リフレ論者の多くはそのことを(故意に?)見落としていたようである。

円安にしない(ならない)のであれば、内外価格差が解消するまでデフレを耐え忍ぶしかない。デフレが終局に近づいたのは、8年以上に及ぶデフレと外国のイ ンフレにより、内外価格差がほぼ解消したからに他ならない。いずれは外国のインフレに引っ張られる形で、日本の物価は上昇に転じるだろう。デフレ脱却が構 造改革の成果でないことは確かである。デフレにもかかわらず2001年から景気が拡大しているのも、「デフレ→価格競争力上昇→輸出好調」という単純なこ とにすぎない(※6)

デフレ脱却の地盤固めをしていたのもまた大蔵省(財務省)であることも指摘しておかなければならない。大蔵省が99年から徹底した円売り介入で1ドル= 100円割れを阻止し、「円高→内外価格差拡大→デフレ圧力増大」を封じ込めたことの意義は特筆に価する。中でも、2003年1月から2004年に3月に かけて溝口財務官(当時、現国際金融情報センター理 事長)が実施した合計35兆円の円売り介入が決定的であった。円売り介入が実はデフレ対策であったことは、溝口氏の「為替随感」、 「『ミスター・ドル』は語る」、「『財務官』でのイ ンタビュー」に詳しい。

デフレも円安も「外貨換算した日本の物価が下がる」ことに変わりはないこと、すなわちデフレと円安が代替関係にあることは、外国から見れば一目瞭然であ る。そのためか、FRBのバーナンキ新議長(※7)を含む外国の経済学者の多くが、早くから 円安によるデフレ脱却を提唱していた。スヴェンソン(プリンストン大学教授)は円売り介入によるデフレ脱出策を“foolproof”とまで表現している。結局のところ、デフレの中心にいた日本人よりも、傍から見ていた外 国人のほうが、デフレの本質を理解していたことになる。「傍目八目」とはまさにこのことだろう。

(※1)経済全体の物価水準の下落が持続すること。なお、ここでは物価指数として GDPデフレータを用いている。
(※2)専門用語では実質為替レートという。
(※3)プラザ合意後の大幅ドル安は、「アメリカ売り」や「アメリカ経済の危機」ではなく、「アメリカ経済の正常化」と認識されていた。
(※4)積極的な金融緩和策でデフレをインフレに転換させること。
(※5)2005年末と等しい対米物価比を2000年の時点で実現するためには、1ドル=140円台が必要であった。
(※6)輸出の対GDP比は2001年の10.6%から2005年には14.3%に上昇。
(※7)“Japanese Monetary Policy: A Case of Self-Induced Paralysis?”

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