中国が「中所得経済の罠」に陥るリスク

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(中所得経済の罠とは)

2007年、世界銀行が東アジア経済の復興に関するレポートの中で、いわゆる「中所得経済の罠(middle income trap)」と称するリスクを指摘して以来、中所得経済への仲間入りを果たした多くの新興国が順調に高所得経済へ移行できるのか、移行するために何が必要かという議論が注目されている。本年5月のハノイでのアジア開発銀行(ADB)総会でも話題になった。世界銀行の定義によると、2009年ドルベースで、一人当たり所得12,195ドル以上が高所得経済、996-12,195ドルが中所得経済、996ドル未満が低所得経済とされる。中所得経済に移行後、一人当たり所得が3000ドル程度までは急速に成長するが、その後停滞する経済が多い。アジアには現在、5つの高所得経済があり(1968年日本、1975年シンガポール、1977年香港、1988年台湾、1994年韓国が、各々高所得経済に移行)、マレーシア、タイ、フィリピンが1960年代初頭から、インドネシア、ベトナム、中国、インドが近年に到り中所得経済へ移行している。

(罠に陥る要因)

罠に陥る要因について必ずしもコンセンサスはないようであるが、一般的には、人口ボーナスの終焉に伴う労働力不足、労働コストの上昇、また産業構造が高度化する移行過程にあって、低所得経済および高所得経済の双方の関係で競争力を失うという経済的リスクと、成長に伴って生じる環境悪化や貧富の格差等の社会的リスクが指摘できよう。そのため罠に陥らないためには、一般的に、経済的リスク回避のための技術革新を通じる新たな価値の創造、社会的リスク回避のための教育の充実が重要視される。ADBによれば、1960年代多くの中所得経済を生んだラ米の例では、マクロ経済の不安定、1980年代の長期にわたる債務危機、所得分配の不平等、経済の穀物輸出への過度の依存が指摘されている。中所得経済が停滞するおそれについては、上記世銀レポートを待つまでもなく、実は1990年代すでに米国の学者によっても、全要素生産性(TFP)の観点から類似の問題提起がなされている。すなわち、アジア諸国の高成長はもっぱら資本と労働の投入増によってもたらされており、TFPの改善(技術進歩、人的資源の高度化、経営環境の改善など)の成長への寄与はほとんどなく、資本と労働に限りがある以上、このままの形で成長を持続させることはできないというものである。

(中国での議論)

中所得経済の罠に陥るリスクについては(中国では「中等収入陥穽」)、中国国内でも近年議論が活発である。たとえば7月25日付人民日報は「昨年、世界第二位のGDP規模となり、ようやく貧困の罠(貧困陥穽)から抜け出した中国にとって、中等収入陥穽は新たな挑戦である」としている。なお多くの貧困人口を抱える中国が、すでに貧困の罠から抜け出したと言えるのかどうかは別としても、様々な議論がある中で、総じて言えば、本年決定されたばかりの第12次5ヵ年計画で示されている環境保全や所得格差是正にも配慮した成長の質重視、内需主導型の成長方式への転換を着実に実施し、より包括的(包容性、inclusive)かつ持続的な成長を図っていくことが、罠を回避する最良の方策である(逆に言えば、罠に陥らないようにするためには、計画の着実な実施が不可欠)との認識が多い(8月8日付経済参考報他)。また、人口学者は、中所得経済は、人口ボーナス期が終焉を迎え高齢化が進む中で、豊富で安価な労働力を有する低所得経済に対し競争力を失う一方、先進的な技術を有してすでに裕福になっている先進経済とも異なるという中間的な性格を持っており、低所得経済と高所得経済のどちらに対しても比較優位を持たないという一般的な論点を強調した上で、高齢化が進む中国の場合、「豊かになる前に高齢化が進む「未富先老」を如何にして回避するかが鍵である」としている(新世紀2月21日号、3月7日号、8月16日付成都晩報他)。もとより外からの援助や安価な労働力を背景とした外資導入、資源投入、環境破壊を伴う大規模インフラプロジェクトに支えられた成長は、長期的に持続できるものではなく、こうした中国学者の指摘は何れも的を得ていると言えよう。

(日本等の経験に関心)

高所得経済への移行を成功させた1960年代の日本や、近年の韓国の経験に注目する中国学者も見られる。たとえば、1960年代の日本は外需と投資に依存して急速な成長を遂げる一方、消費は不足していた点で現在の中国と類似しているが、日本は「所得倍増計画」の下で、強大な中間層を育て、所得分布において中間部分が盛り上がる「橄型(オリーブの葉の形状)」の社会構造を作り上げたこと、とりわけ農業改革や労働関係法制の整備等を通じて、農民や工場労働者の収入を上げて貧富の格差拡大を抑えたことが、罠に陥らなかった大きな要因とする(5月9日付中国青年報、8月4日付網易財経)。また、両国とも経済の発展方式をうまく転換させたこと、研究や技術革新の面で不断に向上が図られたことが大きいとしている(8月8日付経済参考報)。

(中国の難しさ)

一般に、罠に陥る経済的リスクと社会的リスクは相互に関連しているが、特に中国の場合、ふたつのリスクが表裏一体である。中国社会科学院の推計によれば、中国の中間層人口は現在23%程度と、先進国の水準に比べなおはるかに低く、所得分布が中所得層に集中する「橄型」にはほど遠い。都市部を見ても、同院が8月に発表した「中国城市発展報告」によると、中所得層人口は2009年時点で2.3億人と都市人口の37%、貧困人口はなお約5千万人存在し、やはり橄型にはなっていない(同院の中間所得層の定義は、エンゲル係数が0.3-0.373の世帯、貧困層は平均一人当たり年所得が7,500-8,500元未満)。かなり以前から、「貧二代」、「富二代」といった表現で、所得格差の固定化への庶民の不満が示されてきているが、中央党校のある研究員も、都市部住民は、出身、戸籍、体制内か体制外か(ここでの「体制」の意味は必ずしもよくわからない)等々の様々な基準でラベルを貼られ、そのラベルによって異なった道を辿る結果、「代際(世代)分化」が進み、社会の低・中・高の層分化が深刻化しているとしている。そして、こうした社会の流動性欠如の背景には、灰色所得の問題や血縁地縁で結ばれた社会構造がある。こうした中で、貧困層出身者は、真面目に勉学に励んで知識を習得しても、所詮貧困からは抜け出せないという意識を持つようになってきているとされる。「知識改変命運」という古典的な言い回しはもはや通じず、今や「知識没有改変(改変しない)命運」の時代と揶揄されるゆえんである。そしてこうした格差が、マクロ的に消費が盛り上がらず、内需主導型成長への転換を困難にしているという側面がある。その意味で、中国では、罠に陥る経済的リスクと社会的リスクは表裏一体の関係にあり、たとえしばらく高めの成長が持続できたとしても、中期的に罠に陥るリスクを回避し、真の意味で高所得経済に移行することには、なお大きな困難が伴おう。


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