香港ドルの行方

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2012年06月22日

  • 金森 俊樹
香港ドル為替相場は、1983年以来、カレンシーボード(貨幣局)制下で米ドルにペッグされており(一定範囲内での上下変動を許容)、97年の中国本土への返還以降も、「一国2制度」の下で、その制度は変わっていない。他方、2005年以降、人民元為替相場の弾力化が進み、またこの間、人民元は米ドルに対し基本的に切り上がってきたことから、以前は香港ドルの価値が人民元より若干上回っていたものが、近年は逆転し、1香港ドルが0.8強人民元程度となっている。こうした状況もあり、以前からあったカレンシーボードの妥当性に関する議論、さらには香港ドルの存在そのものについての議論が、昨年来、再燃している。

6月12日、香港を含む中国メディアは一斉に、任志剛香港金融管理局前総裁(現香港中文大学研究員)が、カレンシーボード制を見直すべきだと「声高(高調)」に主張した論文を「唐突に」発表したことに注目した。同主張は、直ちに香港融管理局や香港行政府によって否定され、この間、香港ドル相場は大きく上昇した後、再び下落した。任前総裁が展開した主張の要点は、以下の通りである。

  1. カレンシーボードは香港の金融環境の安定に寄与してきたが、同時に、輸入インフレを制御できない、米国を始めとする諸外国の金融緩和政策の影響を大きく受ける等の対価を伴ってきた。
  2. 法律的にも、基本法では、その他の為替相場制の採用が許されている。
  3. 人民元改革が進み、その価値の貯蔵手段としての機能が大きくなっており、また人民元相場の上昇がなお予想される中、人民元が香港の発展に果たす役割を当局者は無視すべきでない。
  4. 具体的には、香港ドルを一定の通貨バスケット、あるいは人民元にペッグし、さらには完全な変動相場まで考えていくべき。
  5. 政治的には現状維持が最も容易だが、何事にも現状を改変していくことには勇気が必要。

本論文が公表された直後、香港行政府財政司長は、こうした論文が突然発表されたことに「驚いた(感到?奇)」と述べ、また行政府長官は、「これまで既に検討されてきたことで、新しい論点は何もなく、国際社会は影響を受けることがないように(不要受文章的影響)」と発言したと伝えられている(6月12日付新浪財経他)。

任論文と何らかの連関があるのかどうか不明であるが、ほぼ時を同じくして、中国の有力学者(人民大学国際貨幣研究所副所長)が、「人民元化が香港ドルの前途を開く」と題する論評を中国語サイトに発表し、カレンシーボードは既に、実体経済面から見て、弊害がメリットより大きくなってきており(弊大与利)、さらに香港が国際金融センターとして発展していくためには香港ドルを完全に人民元化する、言い換えれば香港ドルを廃止することが適切であると主張している(5月28日付第一財経日報)。

昨年央、香港への人民元の流入と人民元預金の急増から、香港ドルが人民元にとって代わられるのではないかとの議論が香港で再燃した(2011年11月7日アジアンインサイト「人民元が香港ドルを「駆逐」する日は来るのか?」)。当時、こうした貨幣代替の懸念の背後には香港ドルの米ドルペッグがあり、2010年末の3050億元から昨年5月5400億元まで増加した人民元預金は、年内(2011年末)にも1兆元を突破し、2年以内に香港ドル預金を上回るかもしれないとの予測が示された。しかしその後、人民元相場の先高感が薄れ、人民元預金残高は本年1月末5760億元、特に昨年10月、12月、本年1月は、何れも前期比で▲0.6%、▲6.2%、▲2.1%とマイナスを記録、急速に増加していた貿易取引の人民元決済も、昨年12月の2390億元から本年1月は1564億元に減少、また、昨年下半期の香港から本土への人民元支払が5000億元であったのに対し、本土から香港への支払は4500億元と、香港から本土へネットで人民元が流出している(Bank of China香港、2012年4月リポート)。さらに米ドルペッグに対する批判の大きな論拠のひとつは、香港として金融政策の独立性を放棄せざるを得ないことから、国内調整面で大きな犠牲を払うことになるという点にあるが(2000年代初のデフレ、近年ではグローバル金融危機以降のインフレ悪化。ただし、香港の中産階層以上は不動産所有に依存しており、資産インフレはデフレに比べ政治的に許容され易い。)、香港のインフレは、昨年央をピークに明らかに沈静化しつつある。以上のような状況変化は、現在、香港金融市場で、人民元オフショア市場としての香港の役割が低下するのではないかという懸念につながっているが、香港ドルそのものへの昨年央に見られたような懸念は、方向としてはむしろ弱まるはずであろう。にもかかわらず、こうしたタイミングで上記のような動きが出ていることをどう理解すべきか、以下のような点を指摘することができるのではないか。

  1. 行政府長官が「任論文に新しい論点は何もない」と述べていることは、とりもなおさず、これまで金融管理局や行政府内部等で、以前から、カレンシーボードを維持することが妥当かどうか、さらには香港ドルの存在意義そのものについて、大きな問題意識が持たれてきたことを示しており、経済面からの検討として、任論文に明確に反論している節は見られない。
  2. 短期的には、上述のような状況変化から、確かに米ドルペッグの見直しや香港ドルの存在意義を議論する緊急性は薄れているが、中期的に大きな問題であるという認識は関係者間で強い。
  3. 任論文や有力学者の論評がこのタイミングで出ていることは、議論の緊急性が薄れてきていることが、逆に政治的摩擦を生じさせるおそれを少なくしているという判断があり、あえてそうした機を捉えて、大胆な問題提起をしたのではないか。

公職を離れた者が、在任中に言い難かった主張(特に政治的インプリケーションのあるもの)を、離任後に展開することは一般によく見られるが、それは、それだけそうした考えが、在任中から強かったことの反映でもあろう。また当局が、政治的配慮から、制度の現状維持をぎりぎりまで主張し続けることもまま見られる。本件は、香港ドルをめぐる問題の方向性が、経済面からの検討からはすでに明確になりつつあるが、それ以上に政治的に微妙な問題であることを改めて示すものだ。

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