君はエド・ソープを知っているか

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2006年05月19日

  • 山下 真一
1997年、マイロン・ショールズとロバート・マートンは、彼らのオプション価格理論(※1)により、ノーベル経済学賞(※2)を受賞した。このため、今日では、彼らの名前を冠したブラック・ショールズ公式は、金融業界においては知らぬ者はいないであろう。ところが、その公式を彼らよりも5年も先んじて発見し、多大な収益をあげていた人物がいることはほとんど知られていない。その人物の名をエド・ソープ(※3)という。

1950年代、当時MITで数学の講師であったエド・ソープは、ブラック・ジャック(※4)でディーラーに打ち勝つ手法を研究していた。カウンティングとよばれる手法により統計的に有意に勝てることを証明したソープは、これを実証するために実際にカジノに乗り込み、$10,000を2日間で2倍以上に増やすことができた。1962年には、この必勝法を解説した書籍 "Beat theDealer"を出版し、ラス・ベガスやアトランティック・シティを震撼させた。この手法を実践し儲ける人があまりにも多く続出したため、現在では、カジノは、ルールを変更し、カウンティングを禁止しているほどである。

次に、証券市場に注目したソープは、1964年にカーソフとともにワラント(※5)の研究を始めた。彼らは研究成果を市場に応用することで、1967年までに運用資産を$40,000から$100,000に増やすことができた.この年、“Beat the Market” という書籍でこの運用成果を発表し、科学的に証券市場で利益を上げることが可能であることを示した.実は、彼らが開発した取引手法(※6)が基礎にしている公式こそが、後のブラック・ショールズ公式(※7)であった。この研究に触発されて、ブラック、ショールズとマートンはそれぞれ異なった視点から研究を行い、1970年に、ブラック・ショールズ公式をもとめることに成功した。(※8)

1969年、ソープはその数学的能力をかわれ、あるヘッジファンドに参加した。そこで、ソープはさらに研究をすすめ、1974年には、誰よりも早く、アメリカン・プット・オプション(※9)を数値的に評価することに成功している。1980年頃には、既に統計的裁定取引やペアトレーディングの基本的なアイデアに到達していた。このファンドは、ソープが考案した取引手法を活用することで、1988年に活動を停止(※10)させられるまでの19年間に、年率平均15%(手数料差引後)ものパフォーマンスを安定的に達成し、最も成功したファンドの一つであると考えられている。

しかし、ソープは、顧客の利益を優先するために、収益に直接結びつくような重要な研究業績は公表しなかった。このため、オプション価格評価というファイナンスの最重要問題を次々と解決していたにもかかわらず、彼に対する学術的評価は高くない。数学に強く、金融市場で鍛えられたソープは、未開の地であった金融工学の世界を切り開いていった真の先駆者といえるが、学問上の名声より実利を重んじた彼の名前はいずれ忘れ去られてしまうかもしれない。しかし、近年、社会学の分野で、1970年代におこった「金融経済学の革命」いうべきこの現象が検証されつつあり(※11)、ソープの業績が正当に評価される日遠からじ、と待ちたいと思う。

(※1)彼らがフィッシャー・ブラックとともに構築したこの理論は「現実世界に対する有効性に関していえば、ファイナンス理論のみならず、全ての経済学のなかで最も成功した理論である」(Stephan Ross,1987)と賞賛されている。
(※2)「金融派生商品の価格を決定する一般的かつ強力な手法を考案し、その後の金融市場の発展に寄与し、さらにはファイナンス以外の分野へも多大な影響を与えた.」ことによる。例えば、不確実性の下での意思決定理論や、近年の商法改正などで会計の分野でもオプション評価の基礎知識は必須である。フィッシャー・ブラックは1995年に逝去したため受賞できなかった。
(※3)Ed Thorp (1932--) 。UCLAで数学のPhDを取得。
(※4)21ともよばれるカード・ゲーム。
(※5)ワラント債についているコールオプションのこと。
(※6)デルタ・ニュートラル法とよばれている手法。
(※7)ブラック・ショールズ公式よりも一般的な公式だといわれている。
(※8)ブラックとショールズはCAPMを出発点とした裁定と動的ヘッジ、マートンは確率解析を応用した裁定によるオプションの複製によりこの公式を得た。彼らの研究結果の貢献を正確にいえば、数多の経済学者の挑戦を退けてきた「投資家のリスク回避度やキャッシュフローの割引率の決定問題」を、「瞬間的に無リスクな、ワラントと株によるデルタ・ニュートラルポートフォリオを構成することで、市場リスクを取り除くことができるため、リスクプレミアムはゼロである」、という衝撃的な結論により解決したことである。詳しくはPerry Mehrling, `Fischer Black And TheRevolutionary Idea Of Finance’ 5章を参照。
(※9)満期までのいつでも権利行使が可能なプットオプション(原資産を定められた価格で売ることのできる権利)のこと。この価格評価は自由境界値問題とよばれ今日でも解析解がもとめられておらず、数値計算に頼らざるをえない。ソープが導出したという積分公式は、数値計算手法のうちの一つ。
(※10)ジャンク債の帝王マイケル・ミルケンがインサイダー取引や株価操作で逮捕された余波を受けて、1988年に活動を停止させられた。ちなみに、このときの検事は、後のニューヨーク市長であるルディ・ジュリアーニである。対照的に、ショールズやマートンが参加したヘッジファンド、ロング・ターム・キャピタル・マネジメントは、ジョン・メリウェザーら金融業界のスーパースターからなるドリームチームとよばれ、当初こそ、年率40%という驚異的な収益をあげていたものの、ロシア経済破綻を発端にした金融危機により、1998年に破綻してしまい、汚点を残すことになった。
(※11)Donald MacKenzie, An Engine, Not a Camera: How Financial ModelsShape Markets (MIT Press)

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